小説

『紡ぎ虫の糸はし』石橋直子(『蜘蛛の糸』)

 なまぬるい時間が過ぎていきました。体の外も、中も、靄に覆われたかのようでした。蜘蛛は、何度か自分のまわりへとゆっくり目を向け、変化がないことを確認しては、また、ゆっくりと仄暗い世界に意識を落としました。そんな時間が重なって、沈殿してゆきました。蜘蛛は時間の膜に覆われる心地よさを感じていました。なにもかもがぼんやりとして、誰も彼女を不快にすることはありませんでした。

 
「おまえに報恩のときを授けましょう」

 その声は唐突でした。そして、答える間もなく、蜘蛛は明るすぎる世界へと連れていかれました。顔をゆがめて目を使おうとするや、飛び込んだのは蓮の緑でした。玉のように真っしろな花と金色の蕊、水面に反射する光。そして緩やかに流れるウツクシイ音。色も音も鮮烈に突き刺さり、蜘蛛はめまいを覚えました。
「おまえ、カンダタという男を知っていますね」
 目の前にいる穏やかな笑みを浮かべた顔が“お釈迦さま”であると、どうしてか蜘蛛は知っていました。でも、カンダタがなんであるかは知らないような気がして、ぼおっとした頭を振りました。
「そうですか」
 お釈迦さまは少しだけ眉をひそめて言いました。
「いえ、忘れてはいないはずです。おまえは、彼の慈悲によって、生きていたのですから」
 お釈迦さまはおっしゃいました。蜘蛛とカンダタが、以前出会っていたこと。男は大悪党でありながら、気まぐれに蜘蛛を助けたこと。そして、彼が今、血の池で苦しんでいること。聞きながら、蜘蛛は、そんなこともあったように思いました。それは、遠く、靄のかかった記憶でした。
「私は、カンダタを信じたいと思います。」お釈迦さまの声で、蜘蛛は我に帰りました。
「優しい彼は、ここに引き上げるに値するかもしれません。彼を連れてきてくれますね」
 迷いのない声が冷たく響き、蓮の葉がざわりと揺れました。
「でもお釈迦さま」
 蜘蛛は、口をついて出た言葉に自分ながら驚いていました。どう継げばいいのか、考えても考えても、頭の中はぐらぐらとゆれるばかりで、
「もし、カンダタが救うに値しないと気づいたらどうなさいますか?」
 言ってから、わけのわからない不安にかられて、蜘蛛はあえぐようにお釈迦様の顔を仰ぎ見ました。

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