満月光る宵の闇、昭和の香りをそのまま残した崩落寸前の木造アパートの一室に、一人の男と一匹の狸が相対して座っている。
男の名は、鈴屋幸平。就職浪人一年生。
狸の名は、茶釜福右衛門。かの有名な、分福茶釜の末裔を名乗る。
「つまり、恩返しに来たと」
幸平は目の前の狸に確認した。狸と言っても、鈍く光るUFOのような茶釜から手足や尻尾を生やしているので、毛むくじゃらの亀に見えないこともない。
福右衛門が言うところには、昨日狸取りの罠にかかった際に、幸平に助けてもらって九死に一生を得たという。そこで分福狸の掟に則り、恩返しに来たのだと。当の幸平にそんな善行を積んだ記憶はないのだが、思い当たる節はあった。
昨夜のこと、近所の川原で自転車をこいでいた幸平は、うっかりタイヤを滑らせて、土手を転がり落ちてしまった。幸い大きな怪我はなかったが、クッションとなってくれた繁みの中に、金属製のケージのようなものが転がっていた。不法投棄の類いと思い、したたかに打ち付けた足腰の痛みもあって特に気にすることなくその場を去ったが、恐らくそれが狸取りの罠だったのだろう。そんなことを思いつつ、幸平は改めて福右衛門に向き直った。
「あれは偶然の事故で、たまたま俺が落ちた先に君がいただけだから、恩に感じる必要はないよ。というか君がいたことすら気づかなかったし。気持ちは嬉しいけど、どうぞお気になさらずに」
対する福右衛門は、つぶらながらも意思の強さをたたえた瞳で、まっすぐ幸平を見つめ返す。
「いえ、そうはいきません。命を救われ、なにもせずに済ましてしまえば、末代までの恥の種。どうぞ遠慮なさらずに、お役に立たせてくださいませ」
愛らしい見た目に反する強情さに、幸平は困惑した。今のところ幸平には、狸の手も借りたいほどの悩みはなかった。いや、ないと言えば嘘になるが、狸の力を借りて、どうにかなる問題ではなかった。
どうやってこの狸くんにお引取り願おうかと、幸平が考えあぐねていると、ぐぅと間抜けな音がした。福右衛門は、「いや、あの、これは」としどろもどろに、今にも茶釜に引っ込みそうなほど、とても気まずそうだった。そのさまがひどく間抜けに見えて、幸平は軽く吹き出した。
「とりあえず、なにか食べにでも行こうか」
こうして一人と一匹は、夜の街へと繰り出した。