小説

『曇天』竜希萬造寺(『少年たち』)

 

 

 この部屋には何とも虚しい空が広がっている。

 僕と加奈子は、生まれた時の姿で、天井を見上げていた。

 平日の昼間だと言うのに、外界からの光は少しも無く、カーテンの隙間から霞んだ日差しが線状に差し込む神秘的な光景を確認する事は出来ない。

 天井に広がる蒼い空にはいくつか雲が浮かんでいる。自由というにはあまりに窮屈すぎて、どこから見ても、停滞しているようにしか見えない。どこへ行くでもなく、いや、正確に言えばどこにも行けないとなるわけだが、風に吹かれもせず、雨を降らせる事もなく、ただ、この狭い部屋の天井に張り付けられているのだ。

 加奈子には10歳になる息子がいる。名は宗太というのだが、僕は彼に何度か会った事はあったが、滑り台のてっぺんから「康生、来てよ」と宗太に呼ばれた時の僕の空っぽの笑顔を見て、「無理して会ってあげなくてもいいよ」と加奈子に気を遣われ、無理なんかしてないと、少し口調を荒げてしまったが、それっきり、加奈子は二人で会うことを強く要求してきた。「最近宗太は元気?」という僕の言葉が体裁を保つためのものである事を加奈子は知っている。

 先日彼女が「ねえ、」と主人の愛を欲しがる猫のように、わがままな口調で「最近、力強くて、殴り合いしたら負けるかも」と、僕の顔色を気にしながら話し、見せてくる写真はどれも、画面から溢れだしそうな程の笑顔をしていたが、それに僕は素直に答えられずに、彼女が求める返事が出来なかった事を少しだけ後悔している。

 彼女は薄い肌掛けの布団で自分の胸を隠し、両手でその胸を雑に抱きかかえている。

 十歳になる子供がいるとはいえ、加奈子はまだ三十歳なのだ。世間では、結婚していない女性の方が多い。元々色素が薄いという髪は、薄っすらと茶色が混じり、ショートボブに整えられ、彼女の魅力を強調していた。絵画のようなくっきりとした瞳と鼻筋、それから顎の輪郭。僕を覗き込む眼差しはどれも、彼女がシングルマザ―であることを忘れさせてくれた。

 加奈子は天井に描かれた空から康生に目線を移した。

「この雲はさ、どこにも行けないんだね。自分たちを突き動かす風もなければ、空の果てもない。どちらに行っても壁に突き当たる」

「これはただの絵だからね」と僕は言った。加奈子が自分を見ていることに、微かに左頬にかかる鼻息で分かったが、僕は敢えて、彼女を見なかった。

「どうしてここに空を描こうと思ったのかしら」

「どうしてだろう」

「気にならない?」

「気にしたこともないな、今まで」

「じゃあ、今考えてみて」彼女が僕を見て言った。

「せめてもの救い、かな?」

「救い?」

「そう。せめて天井くらいは青空を見せてあげようって」

 彼女は上半身を起こして、まるで私たちが雨みたいじゃないと声を少し震わせて言った。

 僕は、その振動が収まるのを待ってから「雨にもなれない、曇天だよ」と、ゆっくりと言葉を置いた。加奈子は、その言葉にしっくりきたのか、体勢を変え、また青空を見上げて、「一番厄介なやつ」と笑った。

 その雲間から陽が差し込もうと、突然雨を降らせようと、それは神のみぞ知る事のように思えて僕は、「そう、厄介なやつ」と答えた。

 その直後、備え付けの受話器が渇いた音を立てて鳴り響いた。虚しいその音は、退出10分前を知らせる電話だった。

「今日の夕飯は?」布団から出て、互いに脱ぎ散らかした服を拾い集めながら、僕は彼女に聞いた。無駄のない手つきでブラジャーのフックを掛け、「いつも適当だよ」と言った。

 加奈子は8年前にシングルマザーになった。宗太の父親は、酒にたばこ、それからギャンブルにまで手を出す人で、板金屋で働いていたが、膨れ上がった借金に首が回らなくなり、加奈子は宗太を連れて、当時の家を逃げるように出て行ったらしい。それから一度も、その人には会っていないそうだ。まだ幼かった宗太には何が起きているのか分からなかっただろう。

 僕は、宗太の瞳を見る度に、加奈子と元夫のことを、加奈子の瞳には、宗太の存在をその奥に感じずにはいられなかった。知りもしない事まで、まるで真実のように想像することが出来たのだ。

 2日後、彼女からの電話が鳴った。僕は駅前の商店街を自宅に向かって歩いている途中だった。

「もしもし?」電話に出ると、スマホの向こう側がやけに騒がしかった。複数の男女の声が入り乱れ、一つの塊のように聞こえる。BGMというには、あまりに荒々しかった。

「あ、もしもし?こーくん?」彼女は、電話の相手が僕であることを確かめた。

「僕以外の誰かが出たことなんてある?」僕は、少し意地悪に言った。

「ないけど、一応ね、一応」

「なんか騒がしいけど、どこか出掛けてるの?」

「私、今戦場にいるの」

「戦場?」

「そう、近所のスーパー。今日、お肉が特売やってて。しかもね、普通のやつじゃないよ。大が付く特価市」騒々しさの中に、彼女が群衆に押し潰されまいと、必死にあがき、主婦達の間から右手を伸ばす姿を想像して思わず声を出して笑ってしまった。

「いま、笑ったでしょ」

「ごめん。今忙しそうだし後でもいいよ」どうやら僕の声は彼女には届いていないらしい。

 しばらく、戦場の音だけが電話越しに流れ、急に、キャーという悲鳴が聞こえた。

「どうしたの?」僕は慌てて声をかける。加奈子は子供のような無邪気さを持ち合わせている。どうやら、目当ての牛バラ肉を手に入れたらしかった。戦場から離れて、静かな乳製品コーナーにたどり着き、この電話の主旨を話始めた。

「今日、うちに泊まりに来ない?」

「きょう?」

「そう。お肉もあるし、三人ですき焼きでもどうかなって」

 僕の脳裏には宗太の顔がよぎった。

「康生は普段、いいお肉なんて食べられないだろうから、別にいいよって」彼女の隣から小さく宗太の声が聞こえた。その表情まで想像できる。

 太陽が、お疲れ様でしたと腰で去っていく。

 久しぶりに会う宗太は、少し大人に見えた。何も変わってねーよと戦場で加奈子が手に入れた牛肉に卵を付けながら言った。

 三人で囲む食卓には妙な息苦しさを感じた。自然が手つかずの状態で残る島に、人が踏み入れて生態系を変えてしまうという話を思い出し、自分が愚かな事をしているのではないかとさえ感じて、肉を味わうことが出来なかった。

 ダブルベッドのど真ん中に小さな怪獣が大の字でスヤスヤと眠っている。加奈子が二人分の赤ワインをグラスに注いでいる。午後十時を回っていた。

「寝てる時は、ほんと別人みたいでしょ」僕のグラスにもワインが注がれて、同時に口に運んだ。

「ワインなんて珍しいね」

「たまには大人の雰囲気を味わってみたいなって」

 彼女は普段アルコールをほとんど口にしない。

「何かあったの?」自分が今日ここに呼ばれた理由が戦場の牛バラ肉以外に何かあるのではないかと思った。ワインの飲み方を知らない彼女は、二口でグラスを空にした。

「父親という存在を意識し始めたんだと思うの」空になったグラスになみなみにワインを注いで言った。

 宗太が仲良くしている友人が家に遊びに来た時に、父親がなぜいないのかという話を加奈子と宗太にしたそうだ。宗太は、初めは笑って誤魔化していたが、その友人はそんな宗太を軽蔑のまなざしで見つめたらしい。話は次第に膨れ上がり、加奈子を置き去りに二人だけの世界を築き上げた。

 なみなみに注がれたグラスを見つめて、加奈子は言った。

「なんか怖いの。変な気起こさなければいいんだけど」

「心配ないよ。探すって言ってもどこに行けばいいのか、宛てもないわけだし」心配ないと念を押した。だといいけど。加奈子はグラスに入ったワインを一口飲んだ。

 翌日、三人で近所の公園に出掛けた。僕が起きると加奈子はすでに起きていて、キッチンで朝食のサンドイッチを作ってくれていた。

 土曜日の公園は、家族連れや恋人で賑わっていた。公園の真ん中にある芝のエリアはちょうど草刈りの作業中で立ち入り禁止のロープが張られていたので、仕方なく横長のベンチに腰掛けた。

 ブランコで立ち漕ぎをする宗太が僕の名前を呼んだ。自分と同年代の若者がいる中で、子供に大声で名前を呼ばれるのには、まだ少し抵抗があった。周りから僕たちはどのように見えているのだろう。自分はずるい人間だと思う。恋愛の甘い部分だけを吸い尽くし、苦い部分は吐いて捨てる。いや、そもそも食べることはないのだ。そんな自分が時々嫌になった。

 どちらが大きくブランコを振れるかという遊びを繰り返し、「康生は加奈子のどこが好きなの?」と言った。僕が言葉を理解した時には宗太は遥か上空を舞っていた。

「お父さんに会いたいんだろ?」

「加奈子から聞いたの?」不満そうに言った。

「まあ、そんなところ」

「でもどこにいるのか知らないし」宗太は哀しい表情を浮かべた。僕はそんな宗太を見て、咄嗟に嘘をついてしまった。それも取り返しのつかない嘘を。

「実は、俺知ってるんだよ」宗太は僕に初めて溢れそうな笑顔を見せた。

「ほんと?」写真でしか見たことのない笑顔を僕は見たのだ。

「お母さんには内緒だからな」加奈子の視線を気にしながら言った。

 次の休みに、僕たちは西武池袋から出ている特急の電車にお弁当と温かい飲み物を買って乗り込んだ。加奈子には、近所に買い物に行くと伝えて朝の10時に家を出た。

 男だけの旅が始まった。

 お弁当を頬張りすぎたのか、宗太が、少し苦しそうにしている。

「焦らなくても、誰も取ったりしないよ」10歳の彼の気持ちが自分自身にも重なるところがあった。父親を探すことは彼にとって、結果より行為そのものに意味があるのだ。

 終点の駅で降り、「神様の力も借りるか」と、宗太を引き連れて駅近の神社を参拝した。

「そんなお願いしなくても、どこにいるのか分かってるんでしょ?」宗太の言葉は、僕を一瞬どきっとさせたが、目を瞑ったまま「宗太が怪我無く無事に帰れるようにお願いしてるんだよ」と、両手を合わせる。

「じゃあ、俺も康生が怪我しないようにお願いするわ」と康生を温かい気持ちにさせた。

 当然だが、康生は父の居場所など知らない。この旅で、父を探す事を諦めてくれることを願っていた。そんな自分を康生は心底憎んだ。

 途中何度かスマホを見ながら、首をかしげて、こっちじゃないか、いや、もっとこっちだなどと、慣れない芝居を繰り返した。歩き疲れた宗太のために、途中何度か休憩をはさみ、「次は電車に乗るよ」と、ローカル線に乗り込み、更に山の奥地へと二人は進んだ。

 歩き疲れたのか、電車に揺られながら、宗太は康生の肩に寄りかかって眠りに付いた。正面の窓にその姿が反射して、僕の目に届く。まるで父親みたいだ、と心の中で言った。

 二人と、少しの乗客を乗せた電車が大きな川を渡る。川下りで有名なその川はどこまでも続いている、果ての無い二人の旅そのものに見えた。電車を降りて、まだ寝ぼけている宗太を連れて、河川敷に降りた。先程、電車で渡ってきた橋の上を貨物列車が通過した。

「お父さんの事覚えてないの?」電車の音にかき消されそうな僕の声が、微かに響いた。

 橋の奥にゆっくりと沈んでいく夕日が虚しく見える。

「覚えてない。加奈子も全然教えてくれないし」宗太の表情が夕日に霞んでいく。

 もう少しで陽が沈む。

「ごめんな」康生は、霞んだ宗太を見て言った。

「なにが?」

「実は、宗太のお父さんの居場所なんて知らないんだ」これだけ連れまわした挙句、真実を話すことはあまりに酷だと思った。二度と口を聞いてくれなくなるかも知れない。それでも言わなければいけない気がした。

「こーせー嘘が下手だよ」宗太が男を見つめている。

「え?」

「でも、ありがとう。楽しかった」

「知ってたの?」

「そりゃ分かるよ」

「お父さんはいいの?」

「加奈子がいるし、それにこーせーもいるし」僕は何と答えていいのか分からず、静かに待った。

「安心して、こーせーは俺のお父さんにはなれないから、こーせーは友達だよ」

 加奈子からの着信を無視して、帰路に就いた時には既に日は暮れていた。

 加奈子は、僕と宗太を叱った。彼女には心配をかけたと思う。「連絡くらい返してよ」彼女はそう言って、宗太を強く抱きしめた。宗太は何度もごめんと言って、加奈子を強く抱きしめた。

 彼は、僕よりも大人で、そしてまだ子供なのだ。