小説

『鬼の勇気』比良慎一(『桃太郎』)

 

 

 日本列島は記録的な猛暑に見舞われていた。ニュースは連日、熱中症関連の話題をメインに取り上げ、注意喚起を促している。そして今日も相変わらず猛暑日らしかった。

 悪意に満ちた太陽光を遮るのは、ドーム型の屋根だった。その屋根の下にある舞台上では、劇団による桃太郎が上演されていた。観客の大半は子供連れの家族だ。その子供達が羨望の眼差しを注いでいるのは、正義のヒーロー桃太郎である。

 子供向けのテーマパークにその野外ステージはあった。すでに桃太郎の公演は佳境を迎え、舞台上では桃太郎と鬼が対峙している。簡素な作りの衣装を着た、犬と猿と雉が観客を煽り、戦いを一層盛り上げる。

 鬼の親玉を演じる矢吹は、手に持った棍棒をひょいと持ち直した。そして、左足を前に出し、軽く腰を落として身構える。しかし、全身赤色のスパッツの中は、うだるような暑さで身体が悲鳴をあげていた。

「覚悟しろ、この悪党め!」

 桃太郎が刀の切っ先を鬼に向け、言い放った。矢吹が辟易するほど浴びた台詞だ。矢吹がこの仕事をして早四年。しかし、これほど独りよがりな台詞など他にない、と内心思っていた。

 鬼役が決まった夜、矢吹は役作りのため思案にふけた。そしてある一つの疑問が生じた。それは、鬼が悪さをした証拠はあるのか、というものだった。

 どうやら鬼は村の金品や作物を奪っていったらしかった。しかし、それは村人の証言だけで、桃太郎がその目で見たわけではない。では、村人の妄言だったとしたらどうだろう。桃太郎は、罪なき者を退治してしまったという悲劇な物語にさえなり得る。しかし、誰も異を唱えず、今も昔も桃太郎は、ヒーローの代表格して確固たる地位を確立している。その反面、鬼は悪であると世間に広く認知されていた。矢吹はあまりに理不尽だと、苛立ちさえ覚えた。

 鬼にも守りたいものがあったはずである。それは家族や友人だったかもしれない。もし仮に桃太郎から逃げ切り、生き残った鬼がいたとしたら、その身と心は深い憎悪心に蝕まれているだろう。そして、終わりのない復讐劇が始まるはずだ。

 桃太郎の物語は、鬼を退治するまでが序幕なのかもしれない、と矢吹は思った。この先も戦いは続くのだと。だが、復讐に燃える鬼を悪だと断罪できるだろうか。無実だったかもしれない鬼にこそ、正義はあったのかもしれない。結局、矢吹の中で、桃太郎という物語の終幕は、どちらかの滅亡だろう、という結論に至った。その考えは、数年経った今でも変わらず頭の片隅に残っていた。

 矢吹は軽く首を振り、暑さで朦朧としていた意識をたぐり寄せる。しかし、このあとの台詞がさっぱり出てこない。矢吹は無意識に、頭の片隅にあった疑念を口走っていた。

「悪党はお前だろうが! 俺達がなにをしたというのだ!」

 台本にない台詞に、桃太郎とその仲間はきょとんとしている。桃太郎が一瞬、はっとした表情をしたあと「鬼は悪党だと相場は決まっている!」と刀を振りかぶる。

 桃太郎が振り下ろした刀を、矢吹は容易く棍棒で受け止めた。あまりに重い一撃で、本当に桃太郎は怒っていると感じた矢吹は、ふつふつと怒りがこみ上げてきた。それは桃太郎役の演者が後輩だから、というくだらないプライドからきたものだった。

 矢吹は、いつもより強めに、かつ素早い動作で桃太郎めがけて棍棒を振り下ろした。台本通りならここで桃太郎は受け止めるはずだった。しかし、桃太郎は対応できずに、頭頂で棍棒を受けた。桃太郎は頭を押さえて蹲る。桃太郎のピンチに、子供達は悲鳴にも似た声援を必死に送っていた。

 舞台が終わり、矢吹は逃げようとしたところを監督である村岡に呼び止められた。村岡に連れてこられたのは控え室だった。村岡は入るなりイスに腰掛け、足を組む。サングラスで目は確認できないが、眉は絵に描いたようにつり上がっている。かなりご立腹の様子だ。

「あれはどういうことか説明しろ」

「暑さであんまり記憶なくて。それでついやってしまったというか」

 矢吹は作り笑いを浮かべる。

「やってしまったですむか、バカ野郎!」

「まあまあ。それにちゃんと猿のビンタで負けたんだからいいじゃないですか。じつはまだほっぺが痛いんですよね。ははっ」

 村岡は長いため息をつき、呆れたように言う。

「お前もいい歳だろ。いい加減大人になれ」

「だからほんと無意識に手が出ちゃったんですってば。こんな暑くちゃそりゃ頭もまわらなくなりますって」

「それでも俺達はやるんだよ。それにこのあとの舞台は娘さんも見に来るんだろ?」

 今日は桃太郎が二公演ある。娘が来るのは、三時間後の十五時にある公演だ。

「まあ、そうですけど」

「なら普通に退治されろ。それが今のお前の仕事だろ」

「わかってますよ」

「ならいい。とりあえず飯でも食って頭冷やしてこい」

 矢吹は軽く頭を下げて控え室をあとにした。やってきたのは、観覧車乗り場の横にある喫煙所だった。使い慣れたジッポライターでタバコに火をつける。深く吸った煙を雲一つない空に向かって吹いてみる。煙は薄い雲となり、空に馴染んだかと思えば、たちまち消えていった。煙の行方を探していると、楽しげな声が耳に届いてきた。何気なしに見やると、観覧車乗り場の前にカップルがいた。園内マップの看板を仲睦まじく眺めている。

 かつて矢吹にもあんな時代があった。

 矢吹はかつて天才子役として日本中を席巻したことがある。しかし、次々と新しい子役が台頭し、矢吹は次第に過去の人となっていった。それでも演技の仕事になんとかしがみついた。

 ぎりぎりの生活の中、二十八歳のときに結婚した。相手はプロデューサーに連れられて行ったスナックのママ、有紀だった。有紀は矢吹の三歳下だが、その割にしっかりとしていて、恋愛感情を抱くまでそう時間はかからなかった。

 しかし、有紀とは四年前に離婚した。矢吹が美人局にあったことが原因だった。知り合いの女性に相談があると言われ、居酒屋に二人で行った。女性は千鳥足になるほど酔っ払い、仕方なく家の玄関先まで送ることにした。そのときに週刊誌に撮られてしまったのだ。家まで送っただけだ、といくら事実を話しても、世間は矢吹を許さなかった。社会は不祥事に厳しい。自分が正義だと信じて疑わない人間が、不祥事を起こした人間に群がり、一斉に刃を向けてくる。連中には、事実かどうかの境界線など必要ないらしかった。

 その結果、矢吹は仕事と家庭を失った。そんなどん底の矢吹に声をかけてくれたのが村岡だった。

 矢吹はタバコの火を丁寧に消す。矢吹は今になって思うことがある。まるで世間が桃太郎で、自分自身は鬼だ、と。だからここまで鬼に感情移入しているのかもしれない。

「おとうさーん」

  微かに聞こえたその声に胸が弾んだ。先月九歳になった娘の優奈が大きく手を振っていた。その横には膨らんだお腹を抱えた有紀が立っている。有紀は去年再婚し、今は妊娠八ヶ月らしい。

「優奈っ」

 矢吹が大きく手を広げると、優奈が満面の笑顔で駆け寄ってくる。

矢吹は優奈を受け止め、抱きかかえる。優奈に会うのは半年ぶりだった。たった半年で子供はここまで大きくなるのだと、感慨深いものがこみ上げてくる。

「お父さん、元気にしてた?」

「元気も元気。よっこいしょ」

 矢吹は優奈を大事に下ろし、ポニーテールに結った頭を優しく撫でる。天使のような優奈の微笑みに、矢吹の顔がついほころぶ。

「お昼ご飯は食べたのか?」

「まだ~」

「じゃあハンバーグでも食いに行くか」

 優奈が「やった~」と小さく飛び跳ねる。矢吹は優奈の手を握り、近くのレストランに向かうことにした。有紀と会釈を交わし、その場で別れた。

 対面に座る優奈が、不慣れな手つきでハンバーグにナイフを入れる。

「食べにくいならフォークだけで食べてもいいんだぞ」

「でもお母さんが怒るから」

 今さら有紀の躾に口を出す権利はない。「そっか」と矢吹は言って、紙コップに入れた水に口をつけた。矢吹の昼食はそれだけだった。頬にまだ若干の痛みがあるし、じつは懐事情も苦しい。

「お父さんは食べないの?」

「ダイエット中だからな」

 ふ~ん、と優奈がハンバーグを口に運ぶ。おいしそうに頬張るその姿を、矢吹はぼんやり眺めていた。

「お父さんは今幸せ?」

 優奈の問いかけにふと我に返る。もう優奈はほとんど食べ終わっていた。

「もちろん。こうして優奈にも会えるんだから」

「よかった」

「優奈も幸せだろ? もうすぐ弟か妹もできるんだしな」

 優奈は少し間を置いて「うん」と小さく頷いた。親だからだろうか、矢吹は優奈が無理しているのだと直感で理解した。

「なにかあったか?」

 優奈は少し黙ったあと、目を伏せて答えた。

「どうしてお父さんって呼ばないのってお母さんにいつも怒られる。もうすぐお姉ちゃんになるんでしょって」

「呼んであげればいいじゃないか」

「呼べるように頑張ろうっていつも思ってるよ」

「べつに頑張る必要なんて――」

「でもどうしても呼べないの。だって好きになれないから」

「なにかされているのか?」

 矢吹は腰を浮かせ、優奈に顔を寄せる。

「ううん。でも新しいお父さんは、私からお父さんを奪ったから」

 優奈の言葉が、矢吹の呼吸を一瞬奪った。背もたれに腰を預け、水を一気に飲み干した。

「そうじゃない。新しいお父さんはなにも悪くない。悪いのは俺だから」

「知ってるよ。でも私またお父さんと一緒に住みたかったから」

「それはもうできないんだ」

「わかってるよ。でも思っちゃうんだ。新しいお父さんがいなかったらもしかしてって」

「ごめんな……ほんとに」

「でも私安心した。お父さんが幸せだって聞いて」

「心配してくれてたのか?」

「ううん、違うよ。お父さんが幸せなら、私も幸せになってもいいのかなって」

「……当たり前だろ」

「新しいお父さんにもお父さんって言えたら、お母さんも赤ちゃんも幸せになれるかな。あと新しいお父さんも。でもお父さんは、やきもちやかない?」

 優奈が小首を傾げ、矢吹の表情を探ってきた。矢吹は笑みを返す。

「どうだろな」

 そう言って、矢吹は立ち上がり優奈を抱きしめた。自分の幸せより、他人の幸せを考える娘が誇らしかった。優奈が願う幸せとは、みんなの幸せが寄り添い合う未来なのだろう。優奈が初めて書いてくれた絵を矢吹は思い出していた。それは矢吹と有紀と優奈が手を固く繋いでいる絵だ。でもそれはもう叶わない。

 優奈になにをしてあげられるのだろう、親としてなにを教えてあげられるのだろう。矢吹は、優奈の身体から伝わる温もりを感じながら、そんなことを考えていた。

 十五時に桃太郎が開演した。いつもと変わらず親子連れの観客が大半を占めている。その最前列には優奈と有紀、そして新しい父がいた。桃太郎がきびだんごを犬、猿、雉に分け与え、劇は順調に進んでいく。

 そして矢吹が演じる鬼の親分の登場となった。唯一の黄色い声援をくれたのが、優奈だった。

 矢吹は舞台が始まる少し前に村岡にある相談をした。村岡は散々悩んだ末に「お前も親なんだな」と了承してくれた。

 矢吹と桃太郎が対峙する。桃太郎の手には刀、鬼の手には棍棒が握られている。観客が固唾を呑んでいるのが空気でわかる。桃太郎が刀の切っ先を鬼に向け、言い放つ。

「覚悟しろ、この悪党め!」

 矢吹はちらりと優奈を見る。優奈は祈るように手を組んでいる。ああ、なんて優しい娘なんだ、と矢吹はつくづく思う。

 矢吹は手に持っていた棍棒を床に落とす。そして、片膝をつき懇願するように言った。

「桃太郎さん。お腰につけたきびだんごをわたくしにもくれないでしょうか? くれるのであれば、お仲間になりましょう。奪った金品は村人へ返すことをお約束いたします。わたくしにも守りたい家族がいるのです」

 矢吹は子を持つ親として、優奈や子供達に伝えたかった。それは暴力だけではなく、歩み寄ることも必要だということを。そうすることでしか、得られない幸福もあるのだということを。もし、あのとき有紀にしっかり歩み寄れていれば、絵のように手を取り合う未来があったのかもしれない。

 鬼が頭を深く下げる。

「なにとぞお願いいたします」

 矢吹は願う。優奈と子供達が誰も悲しむことのない未来をその手で切り拓けますように、と。

 矢吹の中での桃太郎は、こうして終幕を迎えた。