小説

『みみみみみ』香久山ゆみ(『耳なし芳一』)

 

 

 ピピピピピピピ……。

 6時。スマホの目覚ましアラームを止めようと、布団の中から左手をパタパタ動かすもスマホが見つからない。仕方がないのでガバッと起きると、左側で鳴っていたはずのスマホは、右耳のすぐ傍にあった。

 ある日、目覚めると右耳が聞こえなくなっていた。

 仕事と家事を調整して、耳鼻科へ行くと「突発性難聴」だと診断された。原因不明の疾患で早期にステロイド剤の投薬治療がされるものの、予後は3分の1が完治、3分の1が改善するものの元通りには至らず、3分の1は効果がないという。

 もしかしたら、このまま一生片耳が聞こえない可能性がある。

 そう告げられても、さほどショックがなかった。祖母も母も老齢期に耳を悪くしていたので、私もいつかそうなるだろうと思っていたから。まさかこんなに早いとは予想外だったけれど。

 片耳が聞こえないせいで、音の出所が分からない。車の運転は怖くてできないなと思うものの、ペーパードライバーなので問題なし。とりあえず反対の耳は聞こえるので、生活に支障はない。一週間点滴通院となったが、繁忙期でないため仕事もまあなんとかなりそうだ。一応、家族にも難聴で通院すると伝えたものの、普段と変わらず家事をこなしているせいか反応は薄い。むしろ職場の人達の方が親身に病状を聞いてくれたくらいだ。

 突発性難聴の要因としてストレスが挙げられるが、ストレスには大いに心当たりがある。

 半年前、母が急逝した。半身麻痺の父の介護は母が一手に担っていたし、9時から15時までのデイサービスの送迎も家に母がいてこそだ。息子が高学年になり、私は春からフルタイム勤務に戻ったばかりで、大きい案件も任されていた。弟のお嫁さんは専業主婦のはずだけれど、逆の立場ならいい気はしないよなと、あえて声を掛けなかったら、弟の方からも何も言ってこなかった。

 姉弟仲は悪い方じゃないと思っていて、二人で相談して協力して乗り越えていけばいいと思っていたけれど、そんなに甘くなかった。仕事が忙しいから介護の件は任せる、と弟は言った。男は仕事を抜けられないが、女なら平気だろうという意識が透けて見えるようで不愉快だった。が、うちの夫にしたって同じことだ。そういう世代なんだろう。

「家がいい」と父自身が希望したから、時差勤務や年休を駆使して毎日実家に顔を出し、ヘルパーさんも頼んだ。仕事に介護に学校行事にケアマネさんとの面談にと、私の時間は隙間なく埋められていった。当然数ヶ月で限界を迎えて、私は「家にいたい。一人でも大丈夫だ」と言う父に、特養に入ろうと一週間掛けて説得した。はじめ怒った顔をしていた父は、悲しそうな顔をして「分かった」と言った。親にそんな顔をさせたことが申し訳なかった。母が何年も頑張った自宅介護を、たった数ヶ月で諦めてしまうことが申し訳なかった。右耳からはザーザーひどい耳鳴りが四六時中響く。

 遺産分割は早々にまとまったけれど、私も弟も働いているので平日の手続が難しい。そこに突然「あたし行きましょうか」と弟のお嫁さんが名乗りを上げたので、しゃらくさいと断った。役所も銀行も私が行くからいい、と。ほんと馬鹿だ。

 といって、職場でも家庭でも弱音を吐いている暇などない。文句を言っていらぬ軋轢を生んだり、愚痴を溢して説教されるくらいなら、黙って動いた方が手っ取り早い。慢性的な睡眠不足が続いていた。

 そんな中での突発性難聴の発症だった。まあそりゃあそうだよね、無理してたもの。と納得している。耳の不具合くらいなんだ。どうせ誰も私の話など聞きやしないのだし。夫は毎日帰宅が遅いし、息子は絶賛反抗期だ。

 発症をきっかけに、亡き母を想うことが増えた。この数ヶ月間は毎日を生きることに必死だった。けれど片耳の不調は、否が応でも母を思い出させた。母もこんな風に聞き取りづらくて不便だったのかな。「何度も同じこと言わせないでよ」って言ったことがあるけれど、悪いことをした。良い娘ではなかった。ここ数年は、ろくに顔さえ出していなかった。母も一人で介護して不安だったのではないか、寂しかったのではないか。本当はもっと私にできることはあったはずなのに、何もしてあげられなかった。

 そんなことを考えていると、ふと妙な思考に至った。

 ――私の片耳は、きっと母が持って行ったのだ。

 音楽の好きな人だった。せっかくあちらの世界でゆっくりしようと思っても、聞こえにくいと存分に楽しめないものね。だから私の聴力を拝借していったのかもしれない。すとんと腑に落ちた。母へのはなむけとして、片耳の喪失を受入れた。

 病状を受入れた私はふてぶてしくなった。

 上司の理不尽には、「え、何ですか! 聞こえないので大きな声でお願いします!」と大声で威嚇。銀行手続の進捗を催促する弟夫婦には、代わりに銀行いく暇があるならケアマネさんとの面談を代ってくれ、私聞こえにくいからと一蹴。夫のもそもそ言う愚痴は聞こえないので無視。

 反抗期の息子も最近夫と同じ喋り方をする。「うっせえババア」って言う時だけは声がでかい。あまり学校のことを話さないし、連絡帳もプリントも出さない。なので、私がランドセルの中を確認しようとすると、「勝手に触るなババア」。けど、もういい。知らん。明日はお弁当が必要な日のはずだけれど(スーパーで会った同級生のママから教えてもらった)、息子からは何の報告もない。

 案の定、翌朝になってお弁当がいると騒いでる。「自分は言ったはずだ」と言い張る。「耳のせいでママが聞いてなかったんだ」と。絶対言ってないくせに。今週はあえてこちらから声を掛けなかった。毎日帰宅した息子は「ただいま」もろくに言わず、まっすぐにテレビゲームに向かっていたじゃないか。だいいち、聞こえていないかもしれないと分かっていながら、勝手に喋って、確認もしなかったなら、それは独り言と同じだ。相手にちゃんと伝わらなければ、それはコミュニケーションとは言わない。そもそも最近の口の悪さは目に余るけれど、思いやりがないのは許せない。我を張るなら、きちんと自分の行動に責任を持ちなさい。もう登校時間まで二十分だよ、こんな時間に言われてもコンビニ行くしかないよ。こんこんとお説教してしまう。たぶん、難聴の分だけ声もでかくなってしまった。

 息子は目に涙を浮かべながら、「弁当……」と呟く。伝わっているのだかいないのだか。まあ十歳だし仕方ない。

 自分が学生の頃を思い出す。私だって小生意気な娘だった。「お母さんのお弁当はいつも茶色くてダサい」なんてひどいことも言ったな。だけど、母は毎日お弁当を用意してくれた。

 よし。

 お母さんがやってくれたこと、私もやってやろうじゃないか。弁当箱を取り出し、フライパンに油を引く。玉子焼きとソーセージ。冷凍食品をレンジに放り込む。唐揚げ、ミニハンバーグ。昨日の煮物の残り。ふふ、茶色い。ごはんをおにぎりにする時間はあるかしら。俵型のおにぎり、私も好きだったし、息子も好きだ。

「水筒は自分で用意して」

 声を掛けると、わたわたとお茶を注ぐ。なんとか詰め込んだお弁当を持って、息子は「ありがとう」も「いってきます」もなく家を飛び出して行った。

 夕方「ただいま」と帰ってきて、「ありがと」とぶっきらぼうに空っぽのお弁当箱を手渡してきた。話し掛ける時には、「ママ」と呼んで私が振り返ってから話し始めるようになった。成長しているなあ、と微笑ましい。頭を撫でてやりたいけれど、嫌がるだろうから、そっと好物のカニクリームコロッケを食卓に出す。こんなに疲れているのに、わざわざ手作りする自分に驚きだ。どれだけ腹が立っても、結局我が子はかわいい。自分自身以上に大切だと思える存在だ。もしも将来困難に直面しても、お弁当箱やカニクリームコロッケを見るたびに愛されているのだと思い出してほしい。

 翌朝、唐突に聴力は元に戻っていた。

 あの突発性難聴は、やはり母からのメッセージだったのではないかと思っている。自らの限界を無視して突っ走る娘へ、「頑張りすぎるな。休みなさい」と伝えるために。

 相続手続は10ヶ月掛けてぎりぎり片付いた。仕事の案件も難航しながらも前に進んでいる。夫とは話し合いの上、関係を再構築中だ。休日には息子を連れてなるべく父の元へ顔を出すようにしている。息子からSNSやゲームなどスマホの使い方を教わって、それなりに楽しくしているようだ。まだ一度しかできていないけれど、実家への一時帰宅もなるべく叶えてあげたい。弟夫婦にもなるべく顔を出すよう言っている。相変わらず無理はしている。けれど、母が見守っていてくれると思うから、心は満たされている。

 耳鳴りの症状だけは少し残っている。その音の奥に母からのメッセージが残されていやしないかと時々耳を澄ませてみるけれど、「キーン」とここではない遠い世界の音が微かに聞こえるだけだ。