小説

『オス、三毛猫』永佑輔(『猫の皿』)

 犬塚湾子は、その名前とは裏腹に猫カフェを経営している。

 猫の仕入れ先はペットショップではない。保健所から引き取るわけでもない。動物愛護団体から譲渡されるわけでもない。そこらでグウタラしている野良猫を手なづけて捕獲し、カフェに連れて行き、それでもって客の相手をさせる、わけでもない。猫のヌイグルミを並べて猫カフェと言い張っているだけ。

 と言うのも湾子は、ひどい猫アレルギーだから。

 客たち、と言っても湾子目当てにやって来る男性客しかいないのだけれど、彼らはヌイグルミを猫と思い込んでいる。なぜなら彼らにとって湾子は神。湾子がチェック柄と言えばシマウマでもチェック柄になり、猫と言えばヌイグルミの猫でも本物の猫になる。敬虔な彼らは神に従ってヌイグルミを猫扱いしている。

 いつしか湾子自身もヌイグルミを猫扱いするようになっていた。

 ある日、常連男性客が湾子に交際を申し込んだ。

「私が目当てで来てたんですね」

 湾子は冷ややかに応じた。

「いいえ、猫が大好きなんです」

 くだんの彼は狼狽、狼狽、また狼狽。アリバイ作りのために十万円を出して猫、ではなく猫のヌイグルミを買い取った。

 湾子は交際する気など毛の先ほどもない。彼はフラれた挙句、まったく必要としていない猫のヌイグルミを持ち帰るハメになった。

 そのヌイグルミは新品だったから売ろうと思えばいつでも売れただろうが、こうも簡単に売れるとは思ってもみなかった。味を占めた湾子は、男性客を惚れさせて、ヌイグルミを高値で売りつけるというアコギな商売に乗り出した。

 湾子に交際を申し込んだ男性客は、もれなく猫のヌイグルミや、猫だか何だか分からないヌイグルミまで十万円以上の値で買った。湾子と付き合えることを期待して。

 そんな男どもを湾子はバッタバッタとフッった。

「え? 付き合えないんですか?」

 フラれた男性客たちの決まり文句に、湾子は必ずこう返す。

「付き合える雰囲気を出すと、猫がよく売れるんです」

 フラれた男性客たちは怒らなかった。怒れるわけがなかった。表向きは健全な猫カフェに、下心を持ち込んでいると思われたくないから。

 今日も湾子は胸を強調した服を着ている。客寄せのために。そこらのフェミニストが耳にしたら逆鱗に触れるだろうが、お構いなし。幼馴染みのアキコ相手にうそぶく。

「胸って見せるためにあるの」

 アキコは、湾子の女をウリにする態度に日頃からムカついている。けれど、「どうせ胸が小さいから嫉妬してるんでしょ」なんて言われたくないから何も返さなかった。

 そのとき、二十時過ぎ。フラリと野球のユニホームを着た男性客が来店した。ピンストライプの背中に『MIIKE』とある。

 三池ナントカはクシャミをして席に着き、鼻をかみ、コーヒーを注文し、鼻をかみ、出涸らしのコーヒーをすすり、鼻をかみ、読書なんかしちゃって、鼻をかみ、湾子にも湾子の胸にも目もくれず、鼻をかみ、ヌイグルミなんぞに興味はないといった態度で、鼻をかみ、そして鼻をかんだ。

 カフェに訪れる男性客たちは、ヌイグルミを撫でるフリをしてその向こうにある湾子と湾子の胸をチラチラと見る

 湾子と湾子の胸に目もくれない男性客は三池が初めてだった。

 湾子は、プライドが傷つけられる前に三池の目をこちらに向けたい、ヌイグルミを売り付けたいと思い、今以上に胸を強調した服に着替えた。

 それでも三池は湾子にも湾子の胸にも目をくれない。どころか、クシャミと鼻かみで忙しい。

 いよいよ湾子は胸の谷間が見える服に着替えた。

 相も変わらず三池は鼻をかんでいる。鼻をかむために来店したと言っていいほど、かみまくっている。

 胸の谷間に反応するのは他の客たちだけ。

「エロいものが苦手みたい」

 湾子は何も訊かれていないのにアキコにそう告げると、パンツスーツに着替えて三池の前を行ったり来たりした。

 すると、他の客たちが帰ってしまった。

 湾子の愚痴が始まる。

「何なんだよ、バカ男ども。ここは猫カフェだよ」

「猫のヌイグルミカフェでしょ」

 アキコの訂正には耳もくれず、湾子は愚痴をやめない。

「ここは胸を見るトコじゃない。女は男を満足させるための道具じゃない」

「胸をウリにしてるくせに」

「どうせ胸が小さいから嫉妬してるんでしょ」

 湾子は一言一句違うことなく、アキコが想定した通りの言葉を発した。

 バックヤードに続くドアに、汚いオスの三毛猫が挟まっている。

 彼は売れ残ったまま半年を過ごし、バックヤードでいちばん埃のたまる場所に放置されていた。湾子が着替えた拍子に蹴っ飛ばして、久々に表舞台に顔を出したわけだ。

 湾子にはこの三毛猫を入手した記憶がない。

「どこから入って来ちゃったのかな? この汚い猫」

「私が拾って来たヌイグルミだよ」

 アキコは「ヌイグルミ」を強調した。

 男性客から交際を申し込まれ、猫を売りつけ、袖にする。というパターンは完全に確立されている。ただ、持ち帰ってもらえる猫と持ち帰ってもらえない猫がいるのも事実。

 持ち帰られる確率が高いのは三毛猫と金目の黒猫。三毛猫は縁起がいいからで、黒猫は美しいからだ。次に白猫、サビ猫と続く。

 とりわけ忌避されるのは、足の取れてしまっている子、目の潰れてしまっている子、穴が空いている子などだ。持って帰ってもらうためには湾子の胸、いやいや、湾子自身のプレゼン能力にかかっている。だが、いくら頑張ってもダメなものはダメ。ゴミはゴミ。

 湾子からしてみれば、この隻眼、隻腕、穴あきの三毛猫はゴミだ。

「こんなゴミ、拾って来ないで」

 イラついている湾子をよそに、アキコはコーヒーを口に含む。

「不味い。ゴミだね」

 

 三池は読んでいた本をテーブルに伏せて三毛猫にまっしぐら。

「やっと会えたね」

 とか何とか寒いことを言っちゃって、湾子に礼を告げる。

「どうもありがとうございます」

「は?」

「ウチの子を預かってくれてありがとうございます」

「は?」

「ですからウチの子……」

「それウチの子だから」

 三池は目をパチクリさせて、

「は?」

「十万円」

 湾子はぶっきらぼうに吹っかけた。

 三池は逡巡することなくポンと十万円を差し出して、三毛猫を胸元に突っ込んだ。

 ユニホームからひょっこりと三毛猫が顔を出している。三池が動くたびに三毛猫も同じ方を向く。

「いつもこうやって草野球に連れて行ってたんです……失礼します」

 三池が深々と頭を下げて出て行った瞬間、湾子はゴミが十万円で売れたことを喜んだ。のも束の間、アキコがテーブルの上の本を指す。

「三池さんの忘れ物」

 湾子は面倒くさそうにゴミ箱のフタを開けて、捨てる準備を始めた。

 アキコの指が本から本棚に移る。

「保管しときな」

「取りに来ないでしょ」

「保管しときな!」

 アキコが思いっきりゴミ箱のフタを閉めたものだから、湾子は渋々と本を手に取って開いてあるページを一瞥する。

 三毛猫の写真が載っている。本曰く、オスの三毛猫が誕生する確率は非常に稀れ、らしい。メスの三毛猫とは比べ物にならないほど縁起物として重宝されている、らしい。ある国ではウン千万円で取引きされることもある、らしい。

 らしい、らいし、らしいと続くマユツバな解説文だ。けれど『ウン千万』の字面を見た湾子は、完全に冷静さを失った。そりゃそうだ、三毛猫を、いや、ウン千万円をたった十万円で奪われたのだから。

「やられた!」

 湾子の叫び声に、アキコは猫のように飛び上がって驚いた。

 湾子はカフェを飛び出して左右を見る。まだ二十時台だというのに静まり返っている。三池の姿は見当たらない。

 湾子は右に行きかけてはやめ、左に行きかけてはやめ、動けない。

「右かな? 左かな?」

「政治屋か」

 アキコがツッコミを入れた。

「普通は明るい方に行くよね?」

 アキコの返事を待たず、湾子は明るい方へと走り出した。今や時代遅れとなった猫耳カチューシャを付けたまま。

「虫か」

 アキコがツッコミを入れた頃にはもう、湾子の姿は見えなくなっていた。

 湾子は明るい方へと走る。さっきから鬱陶しくてたまらない猫耳カチューシャを投げ捨てた。マラソン選手がゴール付近でサングラスを投げ捨てるように。

 ピンストライプが見える。三池の背中だ。

 湾子は胸を揺らしながら三池を追う。もう目と鼻の先だ。横断歩道を渡りさえすれば捕まえられる。すわ、ウン千万円ゲット。と思った矢先、湾子は赤信号に捕まった。

 三池が遠ざかってゆく。

「待ちなさい、三池ナントカ!」

 湾子の叫び声はアスファルトに吸収されて響き渡らなかった。

 ようやく信号が赤から青に変わる。

 湾子はダッシュで横断歩道を渡り切った。

 すると、追いかけているはずの三池とすれ違う。「どうして追いかけてる相手とすれ違うの?」なんて思っている暇はないと思っている暇すらないと思いながら、湾子はきびすを返した。

 信号が青点滅から赤に変わる。

 ピンストライプが遠のいてゆく。

 湾子は赤信号に表示されている人物にガンを飛ばした。

 甲斐なく、湾子は来た道を手ぶらで引き返えす。

 キキーッ! 不快なブレーキ音を立ててママチャリが止まった。

 見ると、ママチャリにまたがった三池が電柱に向かって何やらやっている。三毛猫も、ユニホームの胸元から顔を出してジッと電柱を見ている。

 湾子は三池に駆け寄る。

「さっきのウン千……さっきの子を返して」

「ごめんなさい」

「二十万円出す」

 三池は少しの間も置かず、

「この子は売り物ではありません」

 そう断って、電柱の貼り紙を剥がし始めた。

 貼り紙には『ウチの子を探しています』とある。貼り紙に載っている写真はくだんの三毛猫だ。

 三池はクシャミをしながら湾子に写真を見せつける。

「駅の自転車置き場に七匹も捨てられてて……」

「そ」

「ほったらかして会社に行ったんです」

「そ」

「会社から戻ったらこの子だけ残ってたんです」

「そ」

「仕方がないから僕が持って帰りました」

「そ」

「でも半年前に落としちゃって」

「君から逃げたかっただけじゃない?」

「そう、かもですね」

 三池は苦笑しながらヌイグルミを撫でた。

 その姿に、湾子はキュンとする。

 そんな湾子を尻目に、チリン。三池はママチャリのベルで別れを告げて、のんびりと去って行った。

 ピンストライプの背中が見えなくなっても、湾子は高鳴る鼓動を感じながら立ち尽くしていた。

 翌日、湾子はダボっとした服を着て店に出た。胸は強調されていない。

 男性客たちは窓外からダボッとした服を確認すると、吸い込まれるように他の店に入って行った。

 日が暮れてようやく今日初めての客が来たと思ったら、仕事帰りのアキコだ。

 アキコは皮肉る。

「ずいぶん厚着だね」

 湾子はため息とともに吐き出す。

「あの三毛猫が気になる」

「ウン千万円が気になるんでしょ?」

「三池さんも気になる」

 湾子は妙に正直だ。

「恋しちゃってんの?」

 アキコが鼻で笑い飛ばしたそのとき、扉が開いた。

 三池の来店だ。忘れ物の本を取りに来たようだ。

 湾子は胸の高鳴りを感じながら、

「コーヒーでも飲みに行きませんか?」

 誘ってはみたものの、ここは曲がりなりにもカフェ。誘うとか誘わないとか以前に、ふたつのカップを持って三池の前に座るだけ。

 三池はコーヒーを眺めながらチョコンと頭を下げる。

 湾子は三池の手を握る。

「私も猫アレルギーなんです。お互い、大変ですよね」

 湾子の目には、三池がえらく赤面しているように見えた。特に鼻は真っ赤だ。

 湾子はトドメを刺しにいく。

「私と付き合ってくれませんか? あの猫ちゃんと三人で仲良くしましょう?」

「あの子は猫じゃないです。ヌイグルミです」

 そう言って、三池は『鼻水 鼻詰まり』と書かれた風邪薬を飲んだ。

 湾子が我に返った頃には、もう三池の姿はなかった。

 アキコはこらえられず、プッと吹き出す。

 湾子は恋を失い、神の地位を失い、最初から存在していないウン千万円すら失った気がした。ハクション! 湾子が得たものは風邪だけだった。