法善寺境内の店『夫婦善哉』で、二つの小さなお椀に入った好物のぜんざいを無心に食べていた父が、突然、母のほうを振り返った。父の鼻先にはぜんざいの粒あんがかすかについていた。
「なあ、俺と結婚してくれへんかな」――
私の両親はともに同じ大阪市内の高校の同級生で、二年生の時はクラスも同じだった。ともに放送部に所属し、織田作之助の『夫婦善哉』を校内放送で一緒に朗読をしたことをきっかけに、お互いの距離を縮めた。
当時、二人は放課後になると、別々に門を出て、いつもある場所で待ち合わせをしていた。
帰る方向も一緒だったので、いつも法善寺界隈で待ち合わせをし、二人だけの時間を夕方まで過ごすのが日課になっていた。
なぜこの場所を選んだのかは自明だった。二人を結びつけたのが、織田作之助の小説『夫婦善哉』だったのだから。
二人にとって、観光客も多い法善寺界隈は、同級生たちからも身を隠せる、絶好の待ち合わせ、デートスポットになっていた。父が母に初めて告白したのも、法善寺前にあるぜんざい屋で、ちょうど二人が温かいぜんざいを食べていたときだった。
高校を卒業すると、それぞれ関西の別の大学に進学。それでも、二人の仲は静かに続いた。大学卒業と同時に二人は就職。五年後には結婚し、しばらくしてこの私が生まれた。二人の間に子どもは私一人だけ。その後、普通の家庭生活が普通に続いていった。
そんな我が家にちょっとした異変が起きたのは、私が高校に入学してからすぐの頃だった。その時、父はちょうど五十五歳になったばかり。定年退職までまだ間があるというのに、父は長年勤めてきた地元中学校の教員を辞めたのだ。
その理由は父自身にあった。生徒の成績を何度もつけ間違い、挙句には、高校受験を控えたある生徒と、別の生徒の成績を入れ間違ったのだ。
二学期の成績表を見た生徒本人からの指摘を受けて、ようやく気づいたという。生徒本人よりも保護者との間で大問題になった。しだいにクラスの生徒の名前すら思い出せなくなっていく。父は教師としての自信を失い、これ以上、学校や生徒に迷惑かけられないと、自ら教壇を去る決意をした。