小説

『電車』久遠さくら(『蜜柑』)

 いつもの帰り道のことである。
 
 その日は特に変わったこともなく、定時を過ぎての残業を終えて、自分を迎えてくれる人が誰もいない、寂しくも満足な自宅へと帰宅していた。音楽が好きで、よく移動中は中毒者のように永久的にイヤホンを耳にはめていた。しかし、長時間の装着を何年も繰り返しているうち、ある日に耳から血が滴り落ち、激痛が走った。病院に赴き、医者からイヤホンを控えるように言われて以降、意識的にはイヤホンを耳にはめることを辞めた。そのため、今までは音楽でかき消されていた周りの罵詈雑言が四方八方から頻繁に聴こえてしまう。その汚い音を、否が応でも美麗な音色の音楽と比較してしまい、気分を落とすこともあった。その代わり、夜風の爽やかな涼しさが、本来であれば塞がれていた耳を通るとき、表現しがたい心地よさがあった。
 
 自宅から会社までは、一時間ほどの距離の所にある。長時間の通学のため、早起きを強いられてしまい、帰ってくる頃には、もう遅い時間になってしまう。何度も会社の近くに引っ越しをしようと考えたが、どうしても引っ越しの際の面倒くささが勝ってしまい、いまだに長い時間の移動に耐えている。
  
 会社から徒歩五分ほどで到着する地下鉄の入り口は、見事に汚れている。近代感を出すためなのかステンレスのガラスを一面に使用しているが、年月によって砂や石によるすり傷で風化の足跡を隠せないでいる。
  
 そんなことを誰も気にする様子も見せない。似たようなスーツを着こなしながら、疲労によって、すっかりやつれてしまっている人々と一緒になって地下への階段を降りる。最適解を歩むように前の人と同じ道を進み、やっと他と違う行動をとるときは、上がりか下がりかの、ホームが違うだけであった。
 
 長時間の乗車を好ましく思う人はいない。唯一であるが、乗り換えをせずに一本の電車で自宅までの最寄り駅に到着できるのが、僅かに自分の心を落ち着かせてくれている。乗り換えがあったなら、今頃ストレスによって即刻、引っ越しをしていたであろう。逆に言ったら、そのせいで私は面倒くさい気持ちが、行動を抑制されてしまっているのだが。
  
 やってきた電車に乗っている人数が、皆無であろうが、満員だろうが、時間の節約という理由で必ず乗っている。もう何年も似たような時間に乗車していることもあって、電車がやってくる前から、今日はどれくらいの人数なのか把握できるようになっていた。もちろん、例外なときもあるが、大抵は当たるものである。

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