今日も満足のいく仕上げだ。
私が、お礼を言おうとした時、鏡に映る彼女の表情は一瞬、悲しげに見えた。
「私、実は結婚するんです。だから、本日が最後になります」
唐突な言葉だった。この場合、何と返事をすればいいのだろう。私は、咄嗟に適切な単語が浮かばなかった。
「あ、そうなんですか……」
「次回は別の担当者になります。ちゃんと引き継いでおきますので、ご安心ください」
自分の家を建て、この地に引っ越ししてから、この美容室に通うようになった。すでに十数年の月日が流れている。担当の美容師の方は何人か代わっていたが、彼女が一番長く、もう八年は担当している。
「ご結婚されるのですか。ここはお辞めに?」
「はい。主人が転勤になるもので。丁度いいので籍を入れました」
「遠いんですか?」
「千葉の方になります」
「千葉ですか。ちょっと、ここには通えないですね」
「はい」
「私も千葉は無理です」
「え?」
彼女に私の今の冗談は通じなかったようだ。彼女が千葉で美容師を続けるかどうかはわからないが、さすがに私も東京の外れから千葉までは通えない。さっぱりと切った髪の、鏡に映る私の顔はとても悲しそうだった。
私はいつもカットしかしないので、施術は大概は一時間ほどで終了する。その間、出される雑誌は読まない。何か、美容師さんにとても失礼な気がするのだ。家内は、そんなことないんじゃない、と言うが、一生懸命、自分のために仕事してくれる人の前で雑誌を読む行為はどうもできない。かと言って、しっかり目を開けて、カットの様子を逐次確認することなどするわけもない。髪型は前回のように、と美容師さんに告げ、後はなすがまま。姿勢は動かず、ひたすら目を閉じる。
実は、その方が無口な私にはとても楽なように思っていた。なぜなら、私は定期的に会う、大概は女性の美容師の方と気を遣って会話をするのが億劫で仕方がなかった。
その考え方を変えたのが彼女だった。
彼女が新しい担当となって二回目だったと思う。やはり、いつものように椅子に座るなり目を閉じた。ただ、その日は前日の残業と、直前に楽しみにしていた映画を観て来たので、脳が疲労していたのだと思う。すぐに激しい睡魔との戦いに突入した。
そうなのだ。私は、私のために仕事している人の前で、「寝る」ことなど許されないのだ。家内は、気がついたら爆睡してるわよ、なんて笑って言うが、とても信じられない。これが私の美容室でのスタイルなのだ。
だが、この日は、そのスタイルが脆くも崩れ去ってしまった。いわゆる、お流しの後のマッサージは実に気持ちがいい。睡魔との戦いに敗れ、カクンとして目を開けた私に、鏡の前の彼女は優しい笑顔でささやいた。
「お疲れのようですね? 昨日はお仕事で遅かったのですか?」
『目を閉じていれば話しかけられないオーラ』を出していたはずの私は、すぐに状況が把握できなかった。ウソだろ、寝たのか……。適当に返事をし、また目を閉じようか……。
「私も昨日は遅かったんですよ。夜更かししてしまいました。寝たのは三時でした」
まずい……。追い打ちをかけられてしまった……。これは無視するわけにはいかない。
「三時ですか? 睡眠時間はどれくらいですか?」