あの子が髪を黒く染めてきた日、先輩から告白された。いまからちょうど一年前の夏祭りの日だった。
金魚すくいに夢中になった私の毛先が水面についてしまうのを見たあの子は、「いいなあ、あたしも髪伸ばしたい」と言った。濡れた髪を慌てて耳にかけながら「うっとうしいし、いいことないよ」と返すと、あの子は不思議そうに目を丸くした。
「じゃあ、どうしてずっとロングなの。短いのも似合うと思うけど」
そう聞かれて、思いがけず黙ってしまったとき、「やっぱり天邪鬼なところあるでしょ」、そういった彼女のポイの上で金魚がピチピチと暴れて逃げていった。
あの子は「あーあ」と立ち上がって笑った。真っ黒になったボブの毛先をちらっと見て、照れ隠しのように破れたポイを覗いた。「ロングになったら、勇気がでるかも」
「ゼミの安田先輩、黒髪ロングの女の子が好きなんだって」
濡れた髪にヘアオイルをつけてドライヤーで乾かしていくと、うんと甘い香りが広がった。
「髪、艶々だね」
後ろから聞こえてきた声に俯いた。そうだ、みんなそうやって私のことを褒める。いま鏡の後ろに立った先輩が私を好きになった理由もそうだった。どうして私のことが好きなの、なんて私だって聞いたことがある。黒髪のおしとやかな女性が好きなんだって。
先輩は濡れたままの黒い毛先を無遠慮に触って、後ろからそっと抱き着いてくる。乾かすのを一度やめて、振り返って尋ねる。
「ねえ、ゼミの課題、もう終わったの」
「やっと終わったよ。『それから』の三千代について考察を書いた」
「うん、おつかれさま」
「ああ、そういえば」
そこまで話すと、先輩はいきなり私から離れて、スウェットのポケットからスマホを取り出した。しばらくいじってうれしそうに画面を見せてくる。
「今年も花火行こうよ、そろそろ記念日だし」
「うん」
二つ返事をしておいて、私はドライヤーをオンにして髪を乾かし始めた。髪を乾かすための長い時間、いつからか黒いボブの後ろ姿が一瞬、頭の中に浮かぶようになっていた。今年はあの子から花火大会の誘いが来ていない。
ドライヤーを当てたまま後ろを振り返ると先輩は冷蔵庫から出した麦茶をそのままラッパ飲みしていた。彼が何か言ってはにかむように笑ったけれど、なんて言ったのかわからなかった。
翌朝、私の部屋から先輩が帰ったあと、スーパーまで牛乳を買いに、顔にパウダーをはたいて薄ピンクのリップだけ塗って、ショートパンツのまま出かけた。
エアコンのきいた部屋をでるとすぐに汗がじわじわと出てくる。マンションのベランダから見えるいつもの大通りはスーパーまでの近道だけれど、焼け付くくらい日が照りつけていたから、日陰になっている裏道を歩いていった。
古い蕎麦屋や中華料理店、一軒家が立ち並ぶ光景をどこか懐かしく思いながら、人気のない細い路地をオレンジのサンダルでふらふらと歩くと、どこかから微かに水が流れるような、泡がはじけるような音が聞こえてきた。
音がする方へ耳を澄ましながら歩んでいくと、古い一軒家の前に大きな水槽が置いてあって、そのなかを赤や黒の大きな金魚たちがひらひらと尾びれを動かしながら泳いでいる。住宅街の真ん中に突然現れた涼しげな光景を不思議に思うと、「ヘアサロン ナガノ」という青い看板がすぐに目に入った。どうやら一軒家を改築した美容室のようだった。