小説

『おやすみ』香久山ゆみ(『白雪姫』)

――「おやすみ」――
 耳元で声が聞こえる。
 うるさい、うるさい。私はぎゅっと目を瞑り、羊を数える。羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹、四匹、五匹、六匹、七匹……。だめだ。もう少しで深い眠りに就けそうだったのに、引き戻されてしまう。一体誰の声だろう。パパ? ママ? 「おやすみ」、その声は低くくぐもっていて、誰の声なのか、男なのか女なのかもよくわからない。
 誰?
 思い出せない。いや、どうでもいい。それきりすうっと意識は遠くなって、私はぼんやり夢の国への旅に出発する。
 丘の上に立つ白いお城。そのバルコニーの窓を大きく開け放つ。視界の先には青い海が広がる。晴れた空には白い雲が浮かぶ。潮風が髪を揺らす。窓際の鳥籠の中で美しい鳥が体を揺らす。
「おはよう」
 鳥に挨拶すると、鳥も返事をして、ばさばさと大きな羽を広げる。この広い空に飛び立ちたいのだろう。どこまでも。青い海の上を飛んでいくのだ。遠く、遠く。私だって。
 バルコニーから身を乗り出そうとしたところ、ふいと隣のバルコニーからママが顔を出す。
 おはよう。ママはにっこり微笑んでそう言ったはずなのに、なぜだかママの声がどうしても聞こえない。ただ柔らかい唇がぱくぱく動くだけ。
 どうして聞こえないの。ママの声、聞きたい。
 ママの方へ手を伸ばす。
 が、伸ばした手は何かに遮られた。鏡だ。
 小さな私の背丈以上もある、大きな鏡。鏡の向こうにママが映っている。――ママ! 鏡の向こうに一生懸命呼び掛けるけれど、なぜか喉がつかえたようで私も声が出ない。
 ママ! ママ!
 鏡に向かって伸ばした手は何の手ごたえもなく、そのままするんと私は鏡の中に吸い込まれた。
 ママ! と最後に叫んだ時、一瞬振り返ったのは誰だったのだろうか、ママではない女だった気がする。けれど、その姿は捉えるより先に消えてしまった。
 気づくと私は森の中にいた。誰もいない、深い深い森の中。私は歩いている。たった一人で森の中を歩いている。どれだけ歩いても薄暗い森の景色は変わらない。けれど私は歩き続ける。ただ真っ直ぐに、自分がどこへ向かうのかもわからぬまま。実感のないふわふわとした足取りのまま。ああそうだ、これは夢なのだ。ふと思い出すけれど、それ以上は何も考えられない。ただ森の中を行く。ひんやりした空気が歩き続けてほてった顔を冷やす。木々の緑の匂いが漂う。薄く霧がかかっている。景色は変わらない。けれどどんどん森の奥深くに迷い込んでいくような感覚。このままだと迷子になってしまう。いえ、すでに。なのに私の歩みは止まらない。どんどんどんどん。どこへ行くのだろう。これ以上進んではいけないと無意識が警鐘を鳴らす。けれど、止まらない。

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