小説

『おやすみ』香久山ゆみ(『白雪姫』)

 ようやく足が止まったのは、どこからか音楽が聞こえてきたから。
 音が聞こえる方へ進む。
 草むらを抜けると、大きな樹を囲むように、視界が開けて草っ原が広がる。
 メロディに合わせて、太い幹の周りをくるくると小さなお人形さんたちが踊っている。……いいえ、あれは天使かしら? くるくるくるくる……。一人、二人、三人、四人、五人、六人、七人……。小さい人たちは回る。私はその輪に入ることができずに、じっとその場に立ち尽くして見つめている。くるくるくるくる……。しだいに音楽が遠のく。代わりに誰かの歌声が、低く不気味さをも感じる歌声が響く。いえ、これはお経? ……観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子……。読経が私を覆い、埋め尽くされていく。
 ぐらりと視界が揺らいで、意識が遠くなった。
 消えゆく意識の中で、私はようやく思い出す。
 ああ、そうだ。これは、夢なんかじゃない。走馬灯なのだ。
 私は、永遠の眠りに就こうとしているのだ。血のように赤い、悪魔の果実を食べたから。
 そうだ、あの時――。
 私は何の疑いもなく、口にしてしまったのだ。とろりととろけるように甘酸っぱい果汁が口の中に広がる。赤い実は、アダムとイブの昔から禁断の果実だといわれていたのに。
 私に赤い果実を渡した老婆は、私がその実を齧るのを見届けて微笑んだ。
「おやすみ」と――。
 記憶が甦ってくる。天使たちの声が耳元で騒々しい。うるさい。ぐらりと世界が回る。静かに目を閉じていることさえできやしない。
 ふと、目の前に赤いものを捉える。赤い実がまた、私の唇に近づけられる。赤い実なんてもう二度と口にしたくないのに。
「――いやっ」
 力いっぱい腕を振って赤いものを払いのける。
 そこでようやく目が覚めた。
 目の前には驚いた表情をした、見知らぬ男の赤い唇が。反射的に身を退く。意識のない女にキスしようとするなんて、許されることではない。とんでもない男だ。そう指摘すると、男は慌ててぶんぶんと顔の前で手を振った。
「いや、キスじゃなくて。人工呼吸ですよ」と。
 ならば仕方ない。確かに私は毒林檎を食べて、今しがたまで走馬灯を見ていたのだから。
 よろよろと起こす体を、男が大きな手を添えて支えてくれる。彼は本当に善意の人なのだろう。――それに比べて、私は。
 私がようやくはっきり目を開けたのを見届けて、彼はやっと安心したように微笑んだ。美しい顔の男の人。聞けば隣国の王子だという。

1 2 3 4