「嫌よ、そんなん、恥ずかしい」
私は即答した。
「別に服装はそのままでええから。話だけうまく合わしてや。ばあちゃんのためやん、なっ、お願いや」
「・・・・・・考えとく」
そう言って私は電話を切った。
母さんに素っ気ない態度で応対したことは気にならなかったが、電話を切った後にばあちゃんの顔が頭をよぎって胸が痛くなった。
今から二年前、私が大学進学のために上京した頃から、ばあちゃんの認知症は進行し始めた。今も私の両親と自宅で同居しているのだが、最近は夕方になると最寄りのバス停まで行くことが日課となった。もちろん、母さんが付き添って。
「亜沙美を迎えに行ってくるわ」
毎回、そう言って出掛けるらしい。
私立の小学校に入学した私はバスで通学していた。あの頃はよくばあちゃんがバス停に迎えに来てくれた。つまり、ばあちゃんの中で今とあの頃が繋がったようで、毎日、帰るはずのない私のことを迎えに出掛ける。
「そろそろご飯やし帰ろっか」
「でも、亜沙美は?」
「もしかすると、よっちゃんのお母さんが車で送ってくれたのかも」
「あら、それなら安心やね」
今は、それがばあちゃんを納得させる最善の流れだそうだ。
母さんには感心する。私がその立場なら「亜沙美は東京の大学に行ってるやん!」くらいのことを平気で言ってしまいそうなのに、母さんときたら「私も散歩したら運動になるし、まぁ、しゃあないわ」だって。心が広い。
とにかく、一度でいいから本当にバスから降りて来る孫を迎えさせてやってくれ、というのが母さんからの依頼というわけだ。
私は床に寝転び天井を眺めた。母さんの気持ちはよく分かるけれど、随分と症状が進行したばあちゃんに会うのは複雑な気分でもある。
「うぅぅん」と、絞り出した声が静かな部屋に響く。私の視界の端っこの方、スチールラックにぶら下がる御守りが扇風機の風にゆらゆらと揺れていた。
『15時47分発、夕陽ヶ丘団地行き』
よく、このバスに乗ったものだ。我ながら律儀だ。私はわざわざ母校前にあるバス停から乗車した。一つ手前のバス停からでも良いのだが、なんとなく、そうした方があの頃の気持ちに近付けそうな気がしたから。
バスには多くの小学生達が乗っていた。さながらスクールバスのように賑やかだ。
今、乗ったよ、と母さんにLINEを送る。すぐに『OK』とクマのキャラクターの陽気なスタンプが返ってきた。それに反して私は妙な緊張感を覚えていた。バスが停留所に停車するたび、胸がドキドキとする。小学生達は停留所に着くたび、バスから飛び出るような勢いで降りてゆく。私もそうだった。そうやって、ばあちゃんの胸に飛び込んだっけ。
そんなことを考えながら、ぼうっと窓の景色を眺めていると、いよいよ私が降りるバス停が次に迫ってきた。見慣れた景色をぼんやりと視界に流し、バス停を確認する。そこには一人ベンチに腰掛けるばあちゃんの姿があった。
バスが停車する。ゆっくりと前方へ歩みを進める私。小銭を料金箱に入れ、体の向きを左に反転させる。
「おかえり」
そこには、笑顔で私を迎えるばあちゃんの姿があった。
私はバスから駆け下りると、思わずばあちゃんに抱きついた。
「あら、亜沙美ったら泣いちゃって。どないしたんよ? 学校で嫌なことあったか?」
私の頬には知らぬ間に涙が伝っていた。
「辛い時はこの御守りにお願いするんよ。そしたら、きっと大丈夫やからね」
ばあちゃんは、この日のために私がバッグに付けた御守りを右手に優しく握った。そう、これは小学校へ入学して間もない頃、学校に馴染めず登校を嫌がった私にばあちゃんが買ってくれた田丸神社の御守り。ばあちゃんはそのことを覚えてくれていたのだ。
「うん、ばあちゃん、ありがとう。この御守りがあれば絶対に大丈夫やわ」
笑顔を作る私の頭をばあちゃんは「よしよし」と撫でた。恥ずかしいけれど、嬉しかった。
「ほな、帰ろか」
ばあちゃんが手を差し出した。そっと、その手を握る私。ばあちゃんの手が小さく、か弱いことを知る。あの日、ばあちゃんに手を引かれて歩いた道を今は私がばあちゃんに合わせて歩みを進める。なんだか切ない気持ちを感じていると、背後から「ばあちゃん、亜沙美!」と呼ぶ明るい声が聞こえた。
私達が振り返ると、そこには買い物袋を抱え満面の笑みを浮かべる母さんの姿があった。
「今日は、ばあちゃんの大好きなマグロの造りを買ったからね」
「あら、嬉しいなぁ。今日はごちそうやな。はよ帰ってご飯にしよ」
私と母さんは目を合わせて笑った。
ばあちゃんを挟んで三人で歩く帰り道。こうやって歩くのは、いつぶりだろうか。
「ばあちゃん」
「うん?」
「私、明日からは御守りがあるから頑張って一人で帰るね」
「そっかそっか」
ばあちゃんは顔をしわくちゃにして笑った。
涼しい風が吹き抜けた。
「気持ちいい風やね。秋がそこまで来てるわ」
そう言って、ばあちゃんは空を見上げた。