SOMPO認知症エッセイコンテスト

『95歳お爺さんの置き土産』山本美喜子

 元気だった義父は95歳で突然逝った。
 朝食後しばらくして、湯飲みを取ろうと立ち上がった瞬間倒れ込んだ。異変を感じた息子の腕に抱きかかえられ、大きく息を1回吸ってそのまま帰らぬ人になった。すぐに救急車で運ばれたが、それが最期だった。

 義父は、亡くなる前日の夜には『今生のお別れのあいさつ』までして逝った。
 夕飯を食べ、いつもの薬を飲んだ後、義父は私たち夫婦に『今度こそ今生の別れの挨拶です。たぶんもう長くないと思います。今まで本当にありがとう。』と感謝の言葉と私たちにねぎらいを伝えてくれた。
 急におかしなことを言いだしたと思い、何をおかしなことを言っているのかと窘め義父の寝室までついて行った。
 「どうしても布団のシーツを整えることができないからやってくれ」と言われてシーツを整えた。さほどシーツが乱れていたわけではないが整えるとすぐに就寝した。翌朝も自分で起きてきていつものように朝食を自分で用意して食べていたのに。
 普段と違ったのは、風邪気味で、時たまゼイゼイと呼吸をしていたことだけだった。
 思えば自分の健康にはとても気を付けていた人だった。内科的な治療はほとんど必要のない95年の生涯だった。
 毎年の健診も欠かさず、健診医師の言いつけは守り、毎日自室での自橿術体操は欠かさない日課だったが、1年ほど前から白内障と緑内障が進行したため視力の低下と視野狭窄が義父の心の活力を低下させていったのかもしれない。それでも父は自分でタクシーを呼び一人で眼科受診ができる状態であったが、受診のたびに眼科クリニックから私の職場に呼びだしが繰り返しあったことには、いささか閉口した。
 その後義父は、外出頻度も減り義母のお墓詣りにも出かけなくなった。電気や水道の止め忘れ、窓や玄関の閉め忘れ、脱衣所がなぜか毎日水浸しだったり、台所が牛乳の海になっていたりが続いた。同居する私たちの方がまいってしまった。かかりつけ医に義父と一緒に受診し認知症の相談をしたが治療をするほどでもなく、期待できる治療法もなく、年齢相応なものと言われた。
 友人や近所の仲間との交流の場を進められたが、義父の友人はすでに他界しており、もともと人との交流を好まなかった義父に地域交流の場への参加を進める気持ちにもならなかった。かといって介護認定を申請するほどの状況でもないと思った。
 90も過ぎれば、健康優等生の義父であっても年齢には勝てるはずもない。私自身将来義父と同じ年齢まで元気でいる自信など毛頭ない。義父の長生きと健康は凄いことだと思う。
 しかし、共働きで時間も心の余裕もない中で帰宅後の様々なトラブルとその片付けが繰り返されると、家族中にイライラも募っていった。トラブルの頻度は上がっていった。私のイライラの生活は、私だけではなく義父にも、家族にとっても苦しいものになっていく。独立し家を離れた子供たちまでもが心配し、時々帰宅するようになった。自分が穏やかな気持ちでいることが義父にも家族にも幸せなことだと考えるようになった。
 介護保険分野の仕事の経験もあったが、やはり「介護離職」が必要だと痛感し1年前に早期退職の申請を行った。残念と思うことも少しはあったが、残りの1年の時間があれば、自分の仕事の集大成もできると考え決断した。私にとってのラストスパートの仕事は充実していた。
 義父が亡くなったのは、その退職の3カ月前だった。あの生活が際限なく続くと思っていたから、退職し、家族みんなの穏やかな生活のプランを立てていた矢先だ。私たち夫婦は同時期に早期退職して、義父との穏やかで、豊かな生活を新たに設計しようと準備していた。ぽっかりとその中心人物が先に逝ってしまった。
 私たち家族が苦しんだのは、『身体介護』ではない。義父は認知症と診断こそされなかったが勘違いや思い違いなどの生活支障はたくさんあった。健康と言えども、95歳の晩期に至っている高齢者には慣れ親しんだ場所や適度な見守りが必要だ。高齢になっても同居家族がいれば、買い物や食事、洗濯や掃除、入浴準備といった日常生活の環境はすでに自然に整っている。父の変化のたびにそれを整え直そうとして私たち夫婦は苦しんだ。
 人生の計画は、計画通りには進まない。特に人生の後半戦ではなおさらだ。ではその都度軌道修正していこう。その力は磨いてきた。
 義父を含めた家族の幸せ計画だったが、義父から「夫婦二人で次の第二の人生計画をもっと自由に設計していいよ」とチャンスをもらった気がしている。
 今私たち夫婦は、「二番目になりたかった自分」を目指す挑戦を始めた。
『おじいさん、次の挑戦のきっかけをありがとう。ありがたい置き土産を頂きました。』