SOMPO認知症エッセイコンテスト

『ささやかな嘘』もりまりこ

 6月になると、風の匂いに色濃く海の香りがまじってくる。
 湿気の多い日は、とくにそうで。洗濯物は乾きにくいけれど、それでも夏が近づいていることだけは確かで。
 ほったらかしの庭に泰山木がいくつかつぼみをつけては、梅雨の最中にひとりひっそり咲いていて。
 晴れた次の日なんかに窓をあけると、<咲いてました>ってふうでこっちに純白の花びらをみせてくれている。
 昔、一緒に大阪で暮らしていた祖母がすきだった泰山木は、こっちに越してきたときに必ず植えようねって母と約束して、いまだに元気に咲いてくれる。

 ふしぎだけれど、泰山木を見るともうすでに亡くなっている祖母とどこかみえない糸でむすばれながら、話をしているような気持ちに駆られたりする。
 咲いている間は、短いけれど。確実に見守られているような気持ちになってくる。

 祖母は亡くなるまでの数年間、寝たきりに近い状態で、母と私と祖母とで暮らしていた。
 娘である母の事や孫であるわたしのことは、覚えてくれていたけれど、日常のこまごまとした習慣をすっかり忘れてしまっていた。
 きれいごとだけの日々ではなかったけれど、ある日祖母はとても穏やかな表情で、わたしに話しかけた。
「あのね、まり、頼まれてくれない?」
 祖母はそう言いながら、しきりに時計を見ている。
「おばあちゃんね、3時に人と会う約束してるのよ。その人はこっちに向かってるらしくって」
ずっとベッドの上の生活で、誰かが祖母に会いに訪ねてくることなんて一度もなかった。きっとその約束は、祖母の遠い昔の出来事だったのかもしれない。
わたしは祖母の少し混乱している記憶に、寄り添うことの方が大事なのかなって思って
そこに乗ってみた。
「その人は3時に来るんだね」
「そう、そうなのよ」
 再び、祖母は時計を見る。時計の針は2時45分ぐらいだったと思う。
 常識で考えれば、その時間に相手に面会のキャンセルを連絡することは、失礼にあたるぐらいの出来事だろうけれど。わたしは、祖母の様子をみながら、話しかけた。
「もうすぐだね、3時になるよね」
「だから、まりね、その時間におばあちゃんは忙しくて、会えないんだってその人に言ってくれない?」
 少し不安げな表情の祖母。わたしの目をみてその返事をうかがっている。
 わたしは、祖母の不安を取り除きたいと思ったし、今の望みを叶えてあげたいと思った。
「わかったよ。おばあちゃんは、今日都合が悪いから会えないんですって言えばいいんだね!」
「断っておいてくれるね?」
「うん、今からその人に電話して断っておくよ」
 祖母の目は、とても明るい昼の光が差していて。
 そう祖母に告げて、わたしは祖母の部屋から一旦、廊下に出てキッチンへと向かった。

 3時になったらお茶の時間だったので、いつものお気に入りのあんぱんとお茶と大好きなかっぱえびせんと、キャラメルをお盆に用意していた。
 ただ、ついさっきまでしていた話も忘れてしまうこともしばしばだったので、次に祖母の部屋に行ったときはその話はしないでおこうと思った。混乱させたくなかったし、さっき見た祖母の笑顔を崩してしまいたくなかった。

 トントンと部屋をノックする。お盆の上にはいつものおやつセットが並んでる。
 お茶の時間だよって声をかけると、祖母はわたしの顔をじっと見ていた。そして、何か答えを待っているみたいに少しだけ緊張した顔をした。
「まり、ちゃんとあの人に断ってくれた?」
 記憶が確かな時の顔で、そう言った。祖母はさっきまでの会話を覚えていたらしい。
「大丈夫だよ、電話して都合が悪いのでまた次にしてくださいって言ったら、はいわかりましたって。で、おばあちゃん、お大事にって言ってたよ」
 ちょっと、とっさにそんなふうにわたしは言葉を飾った。
「そうね。断ってくれたのね。よかった、よかった、それはよかった」
 祖母は、うれしいことでもあったみたいに、笑顔になって幸せそうな顔をした。

 
 今年、母と暮らす家の庭に祖母が好きだった泰山木が、季節はずれなのに何度も咲いた。
 秋になっても、お彼岸をすぎても、10月の台風の前日も。なんどもつぼみをつけて、しばらくすると肉厚の純白の花弁を堂々と咲かせていた。

 返り咲きしたんだなって。
 祖母が返り咲いているようなイメージをもちながら、その白を窓から見る。
 なんども咲くって、なんでかなって思う。なんども祖母がこの庭に逢いに来ているんだと思うことにして。そう感じるとどこかで見守られているような気がする。
 嘘をついたりしたら、いつも叱っていた祖母だったけれど。
 祖母にはじめてささやかな嘘をついた。祖母の心からの安堵のあの微笑みを、わたしは忘れることができない。