私は「認知症の人」が苦手だった。きっかけは定かではない。だが、物心ついた時には既に「何もわからなくなる病気」、「人が変わってしまう」といった認識があり、いつのまにか
「認知症の人は怖い人だ」と思い込んでいた。そんな時、私の祖父が認知症になった。知らせを受けたのは小学校六年生の夏頃だった。祖父母は遠方に住んでいて、年に一度、年越しを祖父母の家で迎える事が毎年の楽しみだった。しかし、祖父が認知症になって以来、祖父母の家を訪ねる事は無くなった。優しかった祖父が変わってしまう事が怖かったのだ。
その後、祖父と会う事のないまま私は高校三年生になった。部活を引退し、将来について真剣に考えた。やってみたいことはたくさんあった。法学、経済学、文学…しかし、そのどれもが私の頭の中で浮かんでは消えていった。唯一頭の中から離れなかったのが、大学の募集要項を眺めている際、偶然目にとまっただけの社会福祉学という学問だった。その時初めて、祖父の事がいつまでも心の中に残っている事に気が付いた。体が弱く、横になっている事が多かったが、ひたすらに優しく穏やかな人で、訪ねるといつもあたたかい笑顔で出迎えてくれた。そんな祖父を避けたままでいる自分が情けなく、許せなかったのだろう。祖父への罪悪感もあり、その頃には、「認知症の人が苦手だ」という感覚は昔以上に膨れ上がっていた。それでも、罪の意識と向き合って、しっかりと認知症について勉強し、胸を張って祖父に会いたいと、社会福祉を学べる大学に進んだ。
意を決して入学したはずの大学では、結局、認知症の事には今一歩踏み込めず、研究テーマは「高齢者福祉」に留まった。長く持ち続けた偏見は中々拭い去れず、「認知症」に絞って研究を行う事にためらいがあった。社会福祉と一言で言っても選択肢は無限にある。大学には逃げ道がたくさんあった。そこで、大学院に進学し「認知症ケア」を専門のテーマに絞って研究を行う事に決めた。もう逃げ道を作りたくなかった。
「認知症ケア」について研究するには、認知症当事者の方との交流が必要不可欠だ。大学院入学後、私はその足で、様々な地域の施設や団体、イベントを回った。そして、多くの認知症当事者の方にお話を伺ってきた。お会いする前には、自分でも情けないくらいに、常に緊張がついてまわった。上手く話せるだろうかと頭の中はそればかりだった。
そんな中、研究の一貫として働かせてもらった認知症対応型の施設での経験が私の価値 観を大きく変えた。今でも忘れられない初出勤時の事だ。いつにもまして緊張し、話の輪に 入れなかった私に一人の利用者の方が声をかけてくれた。「ここの人たちはいい人ばかりよ。頑張ってね。」と微笑みながら手を差し出し、握手をしてくれた。その時、私の目に移ったその方は単なる「認知症の人」ではなかった。優しく思いやりにあふれた一人の素敵なお年寄りだった。その真心が嬉しくて嬉しくて、手の平に残るぬくもりが離れてしまわないように自宅に帰る電車の中でいつまでも拳を握りしめていた。
それからは、「認知症」というレッテル貼りをやめた。すると全く違う世界が見えてくる。目の前にいるお年寄りは「認知症の人たち」ではなく、苦楽を乗り越え長い人生を輝きぬく
「人生の先生」と呼べるような人々だった。お会いするたびに同じ話を何度もする方もいた。しかし、その話は常に新鮮で色めきだっていた。きっと、その方の最も大事な経験をあます ことなく伝えようとする想いが私の心を惹きつけるのだろうと感じた。
「認知症」は人から何もかも奪ってしまうのだろうか。恐らくそうではない。認知症の方から「その人らしさ」を奪っていくのは過去の私が抱いたような偏見や無知だ。認知症になってもその方が培ってきた魂はいつまでもそこにある。しかし、その魂は「認知症」というレッテルの中に埋もれ少しだけ見えにくくなる。レッテルを剥がし、見方を少しだけ変える事で、私たちは「その人らしさ」に触れる事が出来るのではないだろうか。
雲一つない晴天の日、「雪が綺麗だねぇ」とある方が言った。「雪はふってないみたいですよ」と言おうとして、やめた。その方がどんな綺麗な雪景色をみているのか、想像する方がきっと面白い。
祖父と向き合いたくて進んだこの道は一つの旅のようだった。そして、その旅路の中で、友人に、尊敬する恩師に、日本の介護を支えるプロフェッショナルの方々に、そして素敵なお年寄りにたくさん出会った。それらは全て祖父が私にくれた一生の財産だ。
私は、来年三月大学院を卒業する。「祖父に胸をはって会いたい」と始めたこの旅に一度 区切りをつけることになる。旅の終着点はもちろん祖父の下だ。今の時代、コロナウイルス の影響もあり会いに行くのは簡単じゃない。それでも必ず祖父に会い、今までの不孝を詫び、心からの感謝とこの旅の記憶を伝えたい。