SOMPO認知症エッセイコンテスト

『淡い恋心』金谷祥枝

 今年95歳になる美恵子さんは、3年前まで一人で生活していました。料理が得意だった美恵子さんでしたが、調理中、煮物を作っている事を忘れて鍋を焦がすことが増え、物忘れが多くなり、心配した親族が同居を提案しましたが、本人の希望で老人ホームへ入居することになりました。
 老人ホームに入居すると、今までの生活歴、病歴、家族構成などの聞き取りをします。美恵子さんが入居された時に担当になった私は、今までどんな生活をされているか聞き取りをしました。戦争で夫を亡くしたこと、3人の息子を育てるために朝から夜遅くまで働いたことなど、昨日のことのように話をしてくださいました。認知症の特徴として、最近の記憶は覚えられないことが多いのですが、若かった頃のことは、とても詳しく覚えています。「私の青春時代は戦争で、お洒落もできなかったし恋をするなんてとんでもなかったの。女学校へ行ったけど、野良仕事や鉄砲の弾を磨くようなことばっかりしていたから、勉強なんかしなかったのよ」と笑って話されます。入居後しばらく、美恵子さんは、ホームの生活にも少しずつ慣れて、得意の縫い物で巾着やぬいぐるみを作って穏やかに過ごされていました。
 美恵子さんが入居して1年くらい経った頃、少しずつ食欲がなくなっていきました。体温や血圧には大きな異常はないのですが、食事が食べられない日が数日続きました。医師に診察してもらい点滴が処方されましたが、美恵子さんは「点滴はして欲しくない」と拒否されました。家族にも連絡をして、治療をするように説得してもらいましたが、受け入れられませんでした。美恵子さんに関わるスタッフが心配しミーティングをしました。美恵子さんが食べたいと思うもの、好きなものを提供する。食事の声かけを、食事時間以外でもする。水分は一日どれだけ飲んだか計測する、などいろいろな意見が出されました。
 ミーティングをしてから数日経過しましたが、食欲は変わらずないまま過ぎ、美恵子さんはベッドから起き上がることもできないほど体力が低下していきました。弱っていく美恵子さんをただ見ていることしかできないのかとスタッフが諦めかけた、ある日「美恵子さん。一緒にプリン食べましょう」夜勤だった20歳の山下君が美恵子さんに声をかけました。小さく頷いた美恵子さんのベッドを起こし、美恵子さんの口に小さなスプーンで入れます。美恵子さんは、しばらく口に入れたままでしたが、「僕も食べますから、一緒に食べましょうね」自分用に持ってきたプリンを一口食べると、それと同時にゴクリと飲み込む音が聞こえました。少しずつ時間をかけて、ゆっくりと味わうように美恵子さんはプリンを食べます。山下君が、「食べて元気になりましょうね」「美恵子さん元気がないから心配していたんですよ」など声をかけます。山下君の言葉に穏やかに笑う美恵子さん、その姿は、まるでデートのようです。実は山下君は、イケメン君です。背も高く細いけれど、ユニフォームを着ていてもわかる筋肉、誰にでも優しく穏やかな性格はホームに入居している方からも人気があります。山下君に口に入れてもらいながら、ゆっくりとプリン1個を食べることができて、それを聞いたスタッフは少し安心しました。その後は、美恵子さんも少しずつ食べられるようになりました。それでも、時々、食欲がなくなってくると、山下君の出番です。美恵子さんのベッドサイドで、お話ししながら食べやすいものを一緒に食べる。うっすら頬をピンク色にして、山下君を見つめる姿は、まるで恋人同士のようです。美恵子さんが山下君のことをどう思っているか話すことはありません。でも、注射やお薬で治せなくても、人が人を元気にすることができるのだと山下君と美恵子さんを見ていて思います。戦争で失ってしまった青春、夫に先立たれ、子育てに追われ生きてきて、楽しいことなど、あまりなかったのかもしれません。今、可愛らしく頬を赤く染める美恵子さんの姿に、私もこんな可愛らしいおばあちゃんになりたいと思ったのでした。