SOMPO認知症エッセイコンテスト

『ばあちゃんと旅人』宮沢早紀

「今日はヒドかったわ。私と花さん間違えるんだよ? 週三で世話しにくる自分の娘と何もしない長男の嫁を間違えるかな、普通」
 堰を切ったように母さんの介護の愚痴が始まった。俺も親父もいつも通り聞き役に徹する。
「駿のことは分かってるかなって思って聞いたらさ、何て言ったと思う? ああ、旅をして回ってる人だろ? とか言うんだよ。一体誰と間違えてんだか……」
 祖母の頓珍漢な発言に思わず父が笑う。
「でも駿はよく日に焼けてるし、いい自転車にも乗ってるから、確かに見えなくもないな」
 調子のいい親父の冗談に俺も一緒になって笑うと、母さんはますます不機嫌になった。
「笑いごとじゃないんだってば。いろんなことが分からなくなっちゃってるの、母さんは」
 俺は慌てて機嫌を取りにいく。
「俺もあんまりばあちゃんとこ行けてないから忘れちゃったのかもなー……今度の日曜日、久々にばあちゃんとこ行こうかな」
 最近、ばあちゃんの介護の話になると母さんのイライラが止まらなくなる。パートも家のこともやりながら週三でばあちゃんを世話をする母さんをすごいと思う一方で、リラックスできるはずの食卓がピリピリとした雰囲気になるのは気がかりだった。

 日曜日、俺は宣言通りばあちゃんの家へ行くことにした。「パートが終わったら向かうね」と言いながら慌ただしく身支度をする母さんは、どことなく嬉しそうだった。
手ぶらで会いにいくのも悪い気がして、駅前の和菓子屋で黒糖饅頭を四つだけ買っていった。ばあちゃんの好物なのだ。
 愛車のロードバイクに乗ってばあちゃんの家まで行く。どなたですか? なんて言われたらどうしよう、と少しだけ不安になりながら、母さんから預かった鍵でばあちゃんの家に入ると、ばあちゃんは居間でテレビを観ていた。
 テレビの音が大きい。あと少しで外に聞こえてしまうのではないかというくらいの大音量だった。
「久しぶり、駿だよ」
 少しの間があってから、ばあちゃんの顔に笑みが広がる。
「あら、随分久しぶりねぇ」
「ごめんごめん。これ、黒糖饅頭」
「ありがとうねぇ」
「今、お茶淹れるから。待ってて」
 ばあちゃんの注意が饅頭に向いた隙に、俺はテレビの音量をぐっと下げた。俺のことを分かっているのかいないのか、いまひとつよく分からなかったが、俺はひとまず台所へ行った。

 台所には母さんの介護の痕跡がそこかしこに見て取れた。いつの間にか安全装置がついた小さなコンロに変わっており、「おなべを置かないと火はつかないよ」と母さんの大きな字で注意書きがあった。台所に置いてある皿やコップも全て軽くて割れにくいものに変えたようだった。家で愚痴っている内容なんてほんの一部で、本当は俺や親父の知らないところで沢山の苦労をしているんだな、と思った。

「お饅頭おいしいわ。そう言えばあなた、今度はどこへ行ってたの? 旅をして回るのは大変でしょ?」
 ばあちゃんが尋ねる。母さんが言っていた通り、ばあちゃんは俺をバックパッカーか何かと勘違いしているようだった。
 俺は少し迷ったが、ばあちゃんの勘違いに合わせて「自転車で旅をする人」として振る舞うことにした。ロードバイクで遠出しているのは本当だから、実際に行ったところの話もできる。
「夏は暑くて大変だけど、自転車に乗るのは楽しいよ。この前は江の島の方まで行ったんだ」
 ばあちゃんは「まぁ!」とか「すごいねえ」と言って楽しそうに聞いていた。
 そう言えば、俺のロードバイクは成人の記念にばあちゃんが買ってくれたのだった。俺は縁側から見えるところにロードバイクを運び、ばあちゃんに見せてあげた。
「覚えてる?」
 ばあちゃんは俺の問いかけには答えず、ぼうっとロードバイクを見つめていた。

 夕方になって母さんがやってくると、ばあちゃんは「ありもので悪いねぇ」と言って俺の持ってきた黒糖饅頭を出し、俺のことを「長旅から帰ってきた人だ」と嬉しそうに母さんに紹介した。そして、数時間前に俺がした話を、他の誰かの話とまぜこぜにして楽しそうにしゃべったのだった。

 帰り道、俺は母さんに咎められた。
「ちょっと、母さんに何て話したの? 孫だよって言ってあげなかったの?」
 俺がばあちゃんの勘違いをそのままにしていたことがよろしくなかったようだ。
「ばあちゃんの話をいちいち訂正してたら疲れちゃうし、そればっかりじゃ、ばあちゃんもおもしろくないんじゃないの?」
 俺がそう言うと、母さんは押し黙った。怒らせてしまったか。俺は一瞬、身構えた。
「……確かに母さん、今日はよく笑ってたわ」
 母さんは納得したようにぼそりとつぶやいた。
「駿の言う通りかもね。何でもかんでもこれはこうでしょ? あれはああでしょ? って言われたらつまんないかもね」
「でしょ?」
「時々、母さんのとこ行ってあげてよ。またおかしなこと言うかもしれないけどさ」
「うん」
 次にばあちゃんに会う時はどんな勘違いが待っているだろう。気が付けば、少し楽しみにしている自分がいた。