SOMPO認知症エッセイコンテスト

『合わない帳尻』村田謙一郎

「またそうやって、都合悪くなったらすぐ外す」
 と言って、母は祖父をにらみつけた。手に補聴器を持った祖父は、涼しい顔をして窓から外を見ている。
母の言うことには最近はいつもこうらしい。祖母が亡くなり、一人での暮らしを心配する母が、毎日のように祖父宅を訪れて世話を焼いても、それに対して祖父は散々文句を言った末、母が反論しようとすると、すぐに右耳にかけた補聴器を外し、何も聞こえないというポーズを取るのだとか。
「そのくせ悪口つぶやくと、補聴器つけてないのに、じろっとこっち見るんよ。ほんとは聞こえてるんやないのって思うわ」
 母の口調はいつにも増して厳し目だ。東京で仕事に追われ、盆と正月にしか帰省しない私は、母と一緒に祖父宅を訪問するのが恒例行事となっていた。祖父はこれまで、孫の私の前では常に補聴器を付け、穏やかな口調で普通に会話をしていた。母に対する態度も、母から聞くほどのものとは思えなかった。それが今回の訪問では、私の前でも母をののしり、補聴器も外すようになっていた。母が来れない時に依頼するヘルパーさんに対しても、同じように高圧的な態度をとっているらしい。

 大正生まれの祖父は、亭主関白が当たり前の世を生きてきて、自らもそう振る舞ってきた。祖母に対しては自分のやり方を強要し、それが受け入れられることをいいことに、その要求は日常の細々としたことにまで及んだ。もちろん娘である母に対してもスタンスは同様で、進学先や見合い相手の選択も基本的には祖父が握っていた。しかし母はそれに抗い、なんとか自分の意思でその権利をつかみ取ってきていた。
 そんな祖父も、年齢とともに耳が遠くなり、周囲から勧められた補聴器を嫌々ならがもつけるようになった。物忘れもひどくなり、医者に診てもらったところ、軽い認知症の症状が見受けられるという。
 しかし、私はどうもそれらを額面通りには受け取れなかった。祖父は本当は耳も脳もなんの問題もないのではないか。それを確かめようと、私は母が席を外した時に祖父の横に座り、小声で語りかけた。
「おじいちゃん」
「……」
「おじいちゃん、聞こえてる?」
「ん……ああ」
祖父は補聴器を手にしたまま答えた。
「おじいちゃん、ほんとは耳、悪くないんやろ?」
「ああ」
「やっぱり。なんで聞こえないフリしてるん?」
「本音を聞くためや。人間、相手が聞こえてない思たら、ほんまのこと話しよる」
「そんなことしても腹立つだけで、ええことないやん。歳やねんから、もうちょっと笑って穏やかに過ごしたら」
「ワシはこれまでずっとわがままに生きてきて、周りにとってもロクな人間やない。地獄行きは決定しとる。今さらええ顔して帳尻合わせようとも思わん」

 東京へ帰ってしばらく経った頃、母から電話がかかってきた。風邪をこじらせた祖父が肺炎を併発し、入院したと。加えて急激に認知症も進んでいるという。
「なんか様子が違うんよ」という母に、「どういうこと?」と聞いても要領を得ない。私はたまっていた仕事を手早く片付け、週末に帰ることにした。

 病室の祖父は、思ったより元気そうだった。驚いたのは、私を迎えたその顔が、満面の笑みだったことだ。いつも眉間に刻まれていたシワは目尻に移っていた。母に向ける視線も、以前とはまるで違う優しいものになっている。
 肺炎は小康状態を保っていたが、本当に耳が遠くなったのか認知症の影響なのか、こちらからの問いかけに対して、祖父からの明確な言葉はなく、時折ブツブツと何かをつぶやいている。認知症は進行するにつれ、症状への不安やできないことへの不満から、イライラして怒りっぽくなる易怒性(いどせい)が顕著になるという。しかも、元々そうした性質を持つ者は、その傾向が一層強くなりがちだとか。すると、祖父のこの変容はどういうことだろう。ただ周囲への警戒や張っていたバリアーが解かれ、本来の穏健な人間性が現れることも稀にあるらしい。
 私は病室で祖父と二人になった時に、再び小声で語りかけた。
「おじいちゃん、帳尻合わせようとしてる?」

 それからしばらくして、祖父は容態が急変し、あっけなく逝ってしまった。葬式後の会食の席で、私の横に座った母がつぶやいた。
「棺に補聴器入れてやったわ」
「補聴器? なんで」
「あっちでもしっかり私の声が聞こえるように」
「何を言ってるんや」
「あの人、ズルいわ。最後だけあんな仏さんみたいな顔になって、ニコニコと文句も言わずに話聞いて。あれでこれまでをチャラにできると思ったら大間違いや。言ってやりたいことまだ山ほどあるんや」
 そういうおかんも、このところだいぶ顔つき変わってたで。そう言いかけてやめた。母はそっと、目元をハンカチで拭った。

「おじいちゃん、帳尻合わせようとしてる?」
 その言葉が聞こえたかのように、ベッドに半身を起こしていた祖父が微笑んだ。一瞬ドキッとしたが、祖父の視線の先には、こちらに笑顔を向けて通り過ぎる看護師の姿があった。