SOMPO認知症エッセイコンテスト

『在りし日とこれから』関乃縁

 そよぐ薫風が運ぶ心地よさに、少しばかりの微睡を覚える。いまや娘も成人を迎え、我が家には静かな時間だけが溢れている。
「寒くないかい?」
 私の問いかけに妻は微笑み、
「ええ、大丈夫ですよ」
 と少し他人行儀な言葉を綴る。妻は膝にかけた薄いばかりの毛布をそっと撫でて、庭先に見える景色を穏やかに眺めている。
 「もうそろそろ、あの子も帰ってくるだろう」
 私の言葉に妻は反応しない、あの子……というのが誰のことか分かっていないのかもしれない。
 妻に異常があったのは、蝉がその一生をかけて鳴いているそんな夏の頃だった。
 最初は単なる物忘れだと思っていた。いや、思い込んでいた。だが妻の症状は、私の浅はかな思いを嘲笑うかのように悪化の一途を辿った。
 私の中にはこの身を蝕む様に、後悔と無力感が溢れている。そのことは今でも変わらない。
 気がつくとこうなる前の妻との日常に思いを馳せる。当たり前すぎた日常が、そうでないことを私は思い知った。
 せめてこれからは……娘とも何度も話し合い、私は仕事を辞めて妻のそばに居ることを選んだ。
 妻を見て、妻を想い、妻との明日を思い描く。
つくづく私は愚かな男であり、夫だったな、と過去の自身を自嘲する。
一人の相手を想い、共に生きて行くということがどういうことかやっと分かったのだから。
「ただいま~」
 扉が優しく開く音と聞きなれた声が玄関から聞こえてきた。どうやら娘が帰って来たらしい。
ただいま、と私達に告げて部屋へと入ってくる。
 妻はそんな娘に微笑んだままお辞儀し、それを見た娘の顔に寂しげな表情が浮かんだが、それはすぐに笑顔へと変わっていった。
「何をしているの? 日光浴?」
 妻は頷く。
「お母さん、暖かいね」
 妻はいつも笑顔だった。そして思う、私の居ない時間の妻は果たしてどう過ごしていたのだろうかと。
 私達に向ける笑顔のように、楽しく過ごしていただろうか? それとも一人の時間を、寂しく過ごしていたのだろうか? 考えれば考えるほど、想えば想うほど妻のことを知らない私がいる。
「なあ、お前は母さんの趣味とかって知っているか?」
「私も知らないよ。聞いてみたことはあるけどお母さん秘密って教えてくれなかったから」
「そうか、秘密か……」
「でもお母さん、いつも大切にしていた引き出しがあったよ」
 そんな娘の言葉に今更ながら驚いた。そんなこと聞いたこともなければ考えたこともなかったからだ。
「……どこの引き出しか分かるか?」
 私の言葉に娘が立ち上がり、すぐ近くの棚へと向かう。そして、ここだよ、と指を指した。
 そこは私も触ったことがほとんどない、棚の一番大きな引き出しだった。
「お前はそこの引き出しの中身を見た事があるか?」
 私の言葉に娘は、首を横に振り応える。 静かにその引き出しに手をかけると、驚いた娘が制止しようとする。
「勝手に開けてはいけないのは分かっている……だが私は母さんのことが知りたいんだ……お前もそうじゃないのか?」
 卑怯な言い方だと思う。それでも私は妻の事が知りたかった。大切にしていたその引き出しの中に何があるのか。ゆっくり、ゆっくりと開けていく。
そこには大きな銀色の何かの缶が入っていた。取り出すとそれは多少の重みを、私の手に伝えてくる。
 娘と頷き合い、妻の元へと持っていく。恐る恐る見せたそれに妻は、
「あら、綺麗ね」
 とだけ呟いた。
 僅かに落胆しながら、また娘と頷き合いその缶を開けていく。そこにあったのは、家族で出かけた時の遊園地や施設のチケットの半券やらレシートの束だった。
 どうしてこんな物を?
 そんな言葉が思い浮かぶ。それを一枚ずつ取り出していくとかなりの量だった。
 顔を上げると娘の目からは、夕暮れになりつつある陽の色を含んだ涙が流れていた。
「お父さん……これ……」
 娘が手渡してきたそれは、どこにでもあるレシートだった。
 私は首を傾げて、その内容を見ていく。
 そして気付いたことがあった。私は慌ててチケットの半券やレシートを見ていく。
 驚くことにそれは日付順に整理されており、一番古いものはまだ私と妻が恋人同士だったころのものだった。

 そこには『楽しい一日』や『初めて二人で選んだ』などといった一言が書かれていた。
 どれもそうであり、一枚も欠かすことなく書かれたそれはその時の心境を書いたものだった。
 その一つにこう書いてあった『この一つ一つが大切な想い出』。裏返すと拙い字で『おてつだいけん』とそこには私と娘の名前が記されていた。

 暴かれた秘密の趣味を隠すかのように、薫風が一層強く吹き荒れて、広がったそれらは風に乗って部屋中にまるで花びらのように舞い、その一つが妻の手元に舞い落ちた。
 妻はそれを拾い、微笑みながらその頬に綺麗な涙を流し、
「懐かしいわね、あなた」
 と私を見つめながらそう言った。その言葉を聞いた私と娘は、頬を濡らしながら妻と手を繋ぐ。
 在りし日のあの頃と、これからを想って。