あれは大学一年の夏休みでした。
その頃の僕は毎日通りの向こうからメガホンで連呼される誰かの名前で目をさましていました。「清き一票を、どうか○○×△にお願いします・・・」○○×△さんは、まるでそれがとてもめずらしいワードだとでもいうように、何度も何度も自分の名前を繰り返していました。まったくうるさくてたまりません。僕にはなんの興味も関係もない名前だからです。二十歳になるまであと半年先でした。だから当然投票権もないわけです。
しかし選挙に立つ人間というのは、誰彼構わず声をかけるものらしいのです。僕はその日、あんまりうるさい選挙カーにめげて、ベッドを抜け出してぶらぶらと商店街に出かけました。実家の商店街はすっかりシャッター街と化しています。年老いたばあさんがやっている酒屋とか、歯医者、床屋。どこも細々とただ昨日までの日々を引きずっているだけの店です。夏休みが終わったら僕はまた東京のアパートに帰る予定でした。
酒屋でスナック菓子やらジュースやらを物色したあと、なんとなくふらふらと歩いていると、スーツ姿の男が僕の方に近寄ってきました。ほかに歩いている人はいなかったけど、なんというか迷わず僕に向かって歩いてきた、そんな感じで僕は一瞬どきり、としました。その人は、この暑いのに白い手袋をはめています。ははん、それでわかった。こいつは選挙人だな。選挙人。つまり今度の選挙の立候補者です。僕は揶揄する気分でその人たちのことをそう呼んでいました。
「よろしくお願いします」
と彼は言いました。そして、白い手を差し出したのです。彼の声はやけにくっきりと僕の耳に届きました。そうです、聞こえたというより届いた。耳というよりも頭の中にすっと入ってきたのです。それでつい、そいつの握手に応じてしまいました。選挙人は両手で僕の手を包み込みました。するっとした布の感触と、その中にある温もった人の手の温度。そのとき、僕は顔を上げ確かにそいつの顔を正面からとらえたはずなんです。
「あと半年です」
そいつは手を離すとき、そんな意味不明なことを言いました。あと半年?たしか選挙は次の日曜だ。今日は木曜だから、あと三日と言うならわかるけど。
「あの、あと半年と言うのはなんのことですか。選挙は三日後ですよね」
でもそいつは僕のいうことは無視して、また同じことを言いました。
「あと半年ですね」
とても耳触りのいい声でした。でも優しいとか親しげというのとは違う。そしてやっぱり頭の中に直接入り込んでくるような感じです。
「では、また半年後に」
そう言うと選挙人はどこかへ歩いて行ってしまいました。彼が歩きだすと同時に、まばらな店から人がたくさん出てきて、彼の姿はその人たちに紛れてしまいました。