小説

『白い手袋の男』あおきゆか(『妙な話』芥川龍之介)

 あのおばさん、あの男に入れる気なのかな。握手ひとつでね。
 それにしてもさっきの声は僕のすぐ耳元にしたような気がするのですが。すると、男の隣にもう一人白い手袋の男がいるのを見つけました。たすきはかけていないので応援演説の人かもしれません。二人の候補者が並んで挨拶するなんてことはないでしょうし。するとその男は僕をじっと見て、それからゆっくりとほほ笑みました。それはたしかにあの男でした。地元で「あと半年ですね」と言ったあの男。
 男は僕に向かってこう言いました。
「早くしないと腐ってしまいますよ」
 それは決して大きな声ではありませんでした。彼がしゃべったことに、隣にいた候補者もその人と握手している女の人も誰も気づいていないようでしたから。それどころか誰一人彼の存在を気にしている様子はありません。まるでそこにいないように。そして、彼と僕の間には少なくとも十メートルは距離があったはずなのに、僕にはそのささやき声がはっきりと聞こえたのです。
「何が腐るのですか」
 僕はそう言おうとしました。でも声が掠れてまったく音声にはなりませんでした。気を取り直してもう一度彼らのほうを見ると、男の姿はありませんでした。候補者は一人きりで、どう見ても、さっきほほ笑んだ男はまったく違う顔なのです。それなのにやっぱり僕にはその顔を思い出すことはできませんでした。
 それから一週間というもの、選挙が終わるまで僕はずっとアパートにこもって大学以外どこにも行きませんでした。日焼けを嫌う女の人が白い手袋をしているのを見るのも怖かったほどです。

 年が明けて二月になりました。今度は大臣の不祥事のせいで衆院選です。でも不祥事とかなんとか僕にはどうでもいいことでした。あいつはきっと現れる。選挙とは関係あるのかどうか知らないけど、とにかく選挙の頃になると白い手袋をして現れるのです。念のためネット検索してみたのですが、そもそもあいつが誰かわからないうえに顔が思い出せないのですから、この選挙に出ているかどうか調べようがありません。ともかく僕はあいつに会わないように家に閉じこもるつもりでした。
 でも、そんなときに限ってどうしても出かけなければいけない用事ができるものです。昨夜実家から電話があって親父が倒れたのですぐ帰ってくるようにと言われたのです。僕はあわてて深夜バスに飛び乗りました。こんな非常時なのに、ふとバスの中であいつのことを考えている自分がいました。衆院選ですから、当然地元でも選挙はやっている。もしかすると、あいつはまたやってくるかもしれない。
 僕はそんな考えを振り切り、ことさら父のことだけ考えようとバス停から直接病院に駆けつけました。幸い父は脳震盪で大事なく、僕が行ったときにはもう起き上がって話すこともできるほどに回復していました。
「そういえばさっき、あんたのお友達だって男の人が見舞いにきてくれたのよ」
 ほっとしている僕に、母が言いました。
「え、誰?」
「それが聞きそびれちゃったわ。でも考えてみるとまだ親戚以外知らせてないのに、あの人どこでお父さんのこと知ったのかしら」
「どんなやつだった?」
「さあ・・スーツを着てたけど。あと、なぜか手袋をしてたわね」
「手袋?何色の?」
「白い手袋。ほら、タクシーの運転手さんとかがしてるようなの。変よねえ」
「かあさん、そいつの顔わかる?」
「さあ。どんな顔だったのか、さっきから考えてるんだけどどうしても思い出せないのよね」
 あいつだ、と僕は思いました。まさかこんなところまでくるとは。てっきり選挙のときに辻立ちしているだけかと思っていたのに。あいつは俺を探してやってきているのに違いないのです。

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