小説

『ロングホープ』田中夏草(『うさぎとかめ』)

 薄桃色のリップを載せた長谷川さんの唇は完璧だ。それは、もちろん安物のリップそのものの効用などではなくて、乾燥なんか知らないに違いない長谷川さんの絶妙なカーブを描く唇自体が、そもそも完璧だからなのだ。
 白い光のスクリーンの中でポーズを取っているみたいに、長谷川さんは窓辺の席に座っている。実際には、教室の安っぽいただの擦りガラスに過ぎないその背景でさえ、彼女は味方に付けているのだ。そんな長谷川さんの元に、甘い匂いに誘われるようにして村田光輝が近づいていく。短く刈り込んだ光輝の黒髪も完璧だ。健康的に陽に灼けた光輝の大きな手が、白く清潔なそのスクリーンの中で、長谷川さんの方へゆっくり、ゆっくりと伸びていく。
 あまりに完璧なその光景に、あたしは目を逸らしたくなる。
 教室の空気には、所狭しと春の粒子が散りばめられている。そのキラキラと輝く空気の中を自在に闊歩する彼らを、あたしは羨まし気に眺めている。光輝や長谷川さんが、芝生の上を自由気ままに駆け回ることのできる兎だとしたら、あたしはさながら方向転換さえままならない鈍間な亀だろう。まさか二人は、あたしがここまでつぶさに彼らの一挙手一投足を観察しているとは夢にも思わないだろう。
「ぼーっとして、どうしたの?」
 肩を叩かれて振り向くと、残念な前髪をした曾根がにやにやして立っていた。恐らく昨晩、自分で切ったのだろうが、もうかれこれ五回目になる彼女の失敗に反応する気力すら、あたしの中からは湧いてこない。
「べっ、べつに何でもない」
 あたしの口調は動揺を隠し切れておらず、曽根のにやにや笑いはますます深まった。
「どうせ村田くんの顔にでも見とれてたんでしょう」
「ちょっと、声が大きいってば」
 四方八方から騒々しい笑い声が上がっている教室の中で、曽根が少しくらい大きな声を出したところで、目立つわけはないのだけれど、万が一光輝の耳に届きでもしたらと思うと、あたしは気が気ではない。
「図星かあ」
 己の名推理にいたく満足げな声を漏らす曽根の肩に、窓から吹き込んできた桜の花びらが載った。何故かあたしの目に、その些細な出来事はスローモーションのように映った。感動的な恋愛ドラマであれば、その花びらを摘まみあげるのは、高い鼻梁と澄んだ瞳を持つ完璧なイケメン俳優に違いない。けれど、現実世界の中でそんな配役が整っているはずもなく、桜色に染まった爪のように小さな花びらを摘まみ上げたのは、曽根の前髪と同じくらい残念な存在のあたしだった。
「ねえ、購買にパン買いに行こうよ」
 財布を片手に、そそのかすような口調の曽根に生返事を返しながら、あたしはぼんやりと立ち上がった。光輝が何かとてつもなく面白い冗談を口にしたかのように、長谷川さんは肩を揺らして笑っている。光の中で戯れる二人に近づくことなんて、あたしにはとてもできない。

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