1908年(明治41年)、ブラジル・サンパウロ州のサントス港を目指して783名の日本人が「笠戸丸」で神戸港を出港した。その後は鉄道で移動し、長旅の末にようやくコーヒー園にたどり着いた。日露戦争が始まったのが1904年、人類史において最も過酷かつ不況の中、約780名の日本人が地球の真裏に向かった理由はただ一つ。出稼ぎだ。
曾祖父は『空が、青く、うつくしい』と日本に残してきた家族に手紙を送った。当時の移民勧誘の広告は過剰に好待遇を煽ったもので、貧困に窮する家族を差し置いて自分だけ楽しい思いをして――なんて中傷は、他人より身内からの方が酷かったとばあさんは言う。真面目で義理堅い曾祖父は異国の地で農業と真剣に向き合い、60歳を目前に帰国した。しっかりと出稼ぎの任を務め、家族は曾祖父の物語を「めでたしだ」と言って笑った。それは、過去のことだと見切りをつける大人が、子供の頃に読んだおとぎ話に蓋をするように。
果たして、そうだったのだろうか。自由移民とは名ばかりで、奴隷としてブラジルの労働力不足を補っていた曾祖父が見た空は、決して青空なんかじゃなかっただろう。まあこんなこと、2020年を生きる僕には関係ない話だが。
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僕はブラジル産のコーヒー豆を紙袋から専用のプラスチック容器へと移し、マシーンにセットする。僕にはまったく関係がなかったはずだった「ブラジル」が、目の前にある。いや、堂々と座っている。
「カネ、ホシイ」
オレンジ色のTシャツの中央に巨大なドクロ、「カネ、ホシイ」がポルトガル語だと思っていたら日本語だったと気付いた時、胸がざわざわとした。僕は本社から預かっていた、ブラジル人就労者への規定書類をクリップから外し、3人の青年の前に置く。
「日本語は読めるんですよね。上から順に読んでもらって、最後の空欄に名前を書いてください。サイン、えっと、そこは英語でいいので。あの、分かる?キャンユースピーク、ジャパニーズ?」
本社での面接をクリアしてここに来ているはずだろうに、彼等は互いに顔を見合わせて沈黙のまま首を傾げた。
「まいったな、15時からはチェックインが始まるっていうのに……」
壁掛け時計を見ると、15時まで30分を切っていた。彼らがバスを乗り越してしまい、2時間も遅刻したからだ。もういいや、とテーブルの上に並べた書類をかき集める。
「僕がここのマネージャーで、越智です。越智直哉。本社で聞いているよね?研修中も制服着用で、スタッフ達とのコミュニケーションも基本的には日本語でやってもらうから。よろしくね。じゃあ、とりあえず立って」
彼等は沈黙したまま動かない。僕は苦手な英語で「スタンド・アップ!」と語気を強める。3人はしどろもどろにソファから立ち上がる。
「ここは日本のシティホテルです。日本の時間、日本のルールで動きます。僕が立てと言ったら立つ、遅刻は絶対にしない、提出書類は期限までに必ず出す。分かりましたか?じゃあ、男子更衣室に来て。スーツケースも持って!」
ロビーの客用ソファで入社説明を行っていたため、フロントカウンターに立っていた女性スタッフと目が合う。すぐにさっと逸らされ、その表情が「また空回りしてるよ」と言っているようだった。僕は早足で急ぐ。
あまりにも流れる時間が早すぎるせいで、周りの景色がよくわからなくなっていた。
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