住宅街をぬけると真青な海が見えた。それは自宅がある丘の上から切れ切れにみえる断片的な風景ではなく、存在感そのものだった。
明良(あきら)がスクーターに乗るのは五年ぶりだった。十月の冷涼な風が頬にあたる。最後のカーブを曲がりきると、一直線の道に出た。風待(かざま)岬の先端までつづく断崖の道だ。一瞬だけ目を閉じた。まぶたの裏に強い光がよみがえる。ゆっくりと目をあけたとき、遠く岬の先端に目的地が見えた。
1
市瀬(いちのせ)萌(もえ)花(か)は毎日の日課を欠かさない。その日も、起きるとすぐに兄の明良(あきら)の部屋のドアをノックした。
「お兄ちゃん、生きてる?」
返事はない。
もう一度同じセリフを繰りかえし、今度は強めにノックする。しばらくすると、ドアの向こうからあくび交じりの返事があった。
よかった。
一階からトーストと、父の煎れるコーヒーの香りがした。市瀬家の朝食は、父が出勤する七時半にあわせている。しかしその朝食に兄が同席することはない。東京で一人暮らしをしているときから朝食という文化はなかったのだろう。
「ほんと心配ばっかかけるよな、明良は」
萌花は父の口調をまねて言った。とはいえ、萌花は以前ほど兄を心配していなかった。兄は職業柄ひきこもりではあるものの、若干二十五歳のベストセラー作家で、経済的には今のところ心配がない。気がかりがあるとすればもっと別のことだった。
「まあ考えてもしかたないや」
萌花はつぶやくと、洗面所にむかった。
2
美容室セブンウェイブスは、風待(かざま)岬の突端にある。七波三(ななみさぶ)朗(ろう)は、三十五年続いた七波床屋の第二代店主だ。七波家の長男と次男はそれぞれ、地元でサラリーマンをしており、三男の三朗だけが父と同じ道に進んでいた。店を継いでから三年になるが、六十五歳の父が急逝するまでは、三朗自身これほど早く店を継ぐことになるは思わなかった。
掃除を終えて窓辺に立つと秋のすがすがしい風が入ってきた。美容室セブンウェイブスは太平洋に突きでた岬の上に建つ店だ。海に囲まれた店内には三つの席があり、それぞれ岬、風、光と名前がついている。時間帯によって、店から見える一番美しい岬の風景を楽しんでもらおうと三朗が考えたのだ。朝日がのぼりきった海面はきらきらと光っている。まぶしさに目を細めながら三枚の鏡を磨きあげると、店の外にスクーターが止まる音がした。
入り口に向かうと、ドアが開いてヘルメットをとった市瀬萌花が、片手をあげた。
「サブさん、おはよー」
店の常連の大学生で、髪が腰まである。萌香にとって今日は特別な日になるはずだった。
「おはよう、萌花ちゃん」。
三朗の視線が萌花の長い髪に移動した。三朗の不安そうな視線に気づいたのか、萌香はにやにやしながら言った。
「失敗しても髪は伸びるよ」