店内にもくもくと充満する焼き鳥の匂い。串に刺さった鶏肉がジュウジュウと脂汗をかくたびに、炭がパチパチ爆ぜる音がした。活気のある店内の騒音にかき消されそうになりながらも、焼鳥屋には似合わないラヴェルのボレロがスタッカートを打っている。
ここは神泉。汚らしい外見の割には、意外とこざっぱりとした店内の雰囲気からか、女性客も多く来店をしていた。
「すみません、レモンサワー一つ。生の方ね」
カウンターに座った山下潤は、席に着くや否や常連さながらに注文した。どこか落ち着かない雰囲気で店内を見回しながら、一枚板で作ったであろう机を右手の爪で叩き、わざとらしくボレロのリズムを刻む。今日のおすすめ、白レバーに厚切りハツ。小さく呟きながら、タタタタン、とやはりボレロを弾いた。山下の右隣に座った女性は、友人との会話に声を出して笑いながらも、隣でリズムをとっている山下の存在に全注意のうち半分弱を引かれて、チラチラと山下の指先のあたりを盗み見ている。
「はい、生ビール」
この道数十年と思しき店員のオヤジ、これでもかというぐらいの勘違いをかまして、山下の目の前に生ビールのジョッキを置く。ゴツンと机に打ち付けられたジョッキからは、麦味の泡がごそっと溢れ出し、山下の持つスマートフォンを濡らした。
「お兄さん、わりいね」
堪忍してくれ、とオヤジは右の手のひらを垂直に立てて頭の上まで持ち上げた。泡が溢れたことに対してか、生レモンサワーと間違えて生ビールを持ってきたことか、それとも混みきった店内でこれから起こるであろう店員の粗相を予感してのことか。そのどれでもないかもしれないと思うほど、オヤジは眉を八の字に垂らして快活に笑う。
「ありがとう」
こういうとき、山下は懐の深さというべきか、違ったことを正せない優柔不断さというべきか、そういう類の優しさを見せる。彼の前で起こることは、なんだってまかり通ってしまうのだ。存分に机を汚されたついでと言ってはなんだが、串を二、三本見繕ってもらうことにした。相変わらずもくもくと充満する煙もあり、山下は少し涙ぐんでいたほどだ。
くすくすと、堪えきれずに隣の席の女が笑う。山下が机で奏でるボレロは、彼が想像する以上に劇場型になってきていて、半径数メートル以内のほとんどの人が彼を凝視していた。すみません、という意味で軽く会釈してから、ようやく右手を動かすのを止めた。ただ完全にやめるというわけではなく、今度は左手の人差し指と中指で、先ほどよりも限りなく小さな音でやはりボレロのマーチを奏でるのである。
店員のオヤジが、焼きあがった串を一本、また一本とカウンターの上に置かれた串皿に載せていく。ネギマ、熱々に焼きあがったもも肉と一緒に熱を入れて少し柔らかくなったネギを頬張る。口の中に広がる味は、ほとんど鉄みたいな味だった。ぼんじり、これでもかというぐらいに脂汗のかいたその尻肉は、やはりほとんど鉄のような味に山下は感じた。
そういう味に感じさせるのは、決してオヤジの腕が悪いからというわけではない。かといって食材が悪いわけでもなく、単純に山下の心持ちの問題からくるものであった。彼は左手の爪でボレロを奏でつつ、右手では出された串の身を一つずつ頬張り、時たま泡を失った生ビールをぐびぐびとやりながら、心の中ではざわざわとした不安にも似た感情を抱いていた。心ここにあらず。山下のことを知る人間が見れば、まさにいまの彼はそういった状態であった。
「すみません」山下の左隣の男性だ。「そのタタタタンってやつ」