午前七時ちょうど。いつもは早起きなどせずに睡眠を優先する僕は、ここ数年間ろくに朝食など摂ったことがない。そんな僕が六時に起きてホテルの朝食バイキングである。
一階にあるレストランは、まるで森の中にいるような錯覚を覚えるくらい窓の外に木々の緑が広がる。
昨晩は激しい雨が降った。いや、正しくは実際に見た訳ではないのだが、目の前に広がる雫をまとい朝日に輝く木々がその事実を僕に告げる。そう言えば、明け方に激しい雨音で目が覚めたような、いないような……
一雨一度。なるほど、こうやって季節は移ろいゆくのだな。早朝の天気予報でキャスターが言っていた言葉である。いざ自然を目の前にすると、その言葉の意味をしみじみと感じるが「おいおい、そんな季節を感じるような男だったか」なんて自分で自分にツッコミを入れるほど、日頃の生活で自然に触れることなどほとんどない。目まぐるしく過ぎゆく無機質な大都会で日々を過ごし「寒い」や「暑い」の体感だけが季節を感じる唯一の術である。普段は鬱陶しいだけの雨も、こうして自然の中で見ればこの美しい世界を形成する上で必要不可欠なものだと実感できる。なんてガラにもない。
「あのぉ、焦げてますよ」
「えっ、うわぉっ!」
トースターにロールパン二つを放り込んだ。目一杯ダイヤルを回したまま物思いにふけり、パンのことなど頭の中から消えていた。立ち上る煙と焦げ臭い匂い。慌てて扉を開けたトースターの中には真っ黒になったパンが二つ。
「アツっ!」って、それはそうだ。思わず耳たぶをつまんだ。
「これ、どうぞ」
「あ、すみません」
差し出されたトングを持つ華奢な白い手。こうゆうのって、きっと恋愛ドラマにあるような出逢いの瞬間だ。
僕はまるで職人のように手早くパンを皿に乗せると「助かりました、ありがとうございます」と彼女の方を向き、トングを返した。
「手、大丈夫ですか?」とトングを受け取った女性は、どこかで見覚えのある顔だった。小柄で細身、二重まぶたの大きな目。控えめな茶色のロングヘアは黒いヘアゴムで一つに束ねられている。年は僕と同じ三十代半ばだろうか。
「はい、大丈夫です」
そんな疑問を抱きながらも、彼女が何も言ってこないということは僕の勘違いかも知れない。
「璃子、コーヒー飲むか」
女性の隣にそっと現れた男性が声をかけた。
「うん、ありがと」
意外と早く答えが出た。そうだ、やっぱり。立花璃子……僕の初恋相手であり、初めて失恋を経験した相手でもある。地元ならばまだしも、まさかこんな場所で会うなんて、彼女が気付かないのも無理はない。
夫か彼氏だろう。肩を寄せ合う後ろ姿には幸せが満ち溢れている。そんな二人を焦げたロールパンが乗った皿を手に見送る僕。