「ごめんな、弥生ちゃん。今日休みなのに来てもらって」
店長の稲田知彦は謝罪の言葉を口にしながらも、調理中の手をとめようとしない。けれど、その顔には申し訳なさでいっぱいだった。
「予定なかったし、ぜんぜん大丈夫です。でも、どうしたんですか? 奥さんの姿も見えないし」
水野弥生は、しっかりと洗った手をペーパータオルで拭きながら質問する。
「いや、それがなあ……。この忙しいときに、あいつ転んで怪我しちまってさ。どうも、足を痛めてな」
ため息まじりで話す店長の声には、どことなく心配の色が滲んでいた。
「え。奥さん、いま病院ですか? ついていなくて大丈夫ですか?」
「今は貴がついてるから、問題ないんだ。今日は予約のお客さんだけにして、早く店閉めるからさ。それまで弥生ちゃん頼むよ」
「はい。がんばります!」弥生はエプロンの紐をぎゅっと縛りながら元気よく返事をした。
みなもと商店街の隅にある、小料理屋「いなだ」はカウンターと座敷からなる小さな店だ。店長の稲田知彦が料理をつくり、妻の良美が飲み物を作ったり、お客様の相手をしている。一人息子である貴も店の手伝いをしている。大学三年生になり、時間に余裕ができた弥生は、今年の春から週に二、三回アルバイトとして「いなだ」を手伝っている。
来店客はおもに、みなもと商店街で店を構える人や、近隣住民ばかり。
「小料理屋といっても名前ばかりよ。実際には大衆食堂みたいなもので、いやらしいお客さんなんかこないから安心して」と弥生はアルバイトの面接時にニコニコと笑う奥さんに説明された。弥生がバイトに入ると、確かに商店街に店を構えている人が仕事帰りに一杯飲んだり、家族連れで食事に来ていることが多かった。
「ありがとうございましたぁ」
弥生はお辞儀をしながら、お客様を笑顔で見送った。
「弥生ちゃん、のれん、仕舞っちゃって」予約のお客様が帰ると、店長は宣言していた通り早めに店を片付けはじめた。
「やっぱり奥さんがいないと、寂しいですか?」
にやにやしながら、弥生は店長を冷やかした。
「おーい、大人をからかうんじゃないぞ」店長はおでこに浮かんだ汗をぬぐいながら、苦笑いをしている。
「でも、リズム狂っちまうわなあ……。いつもと違うとなあ」とちいさくため息をついた。
「……奥さんの怪我って、ひどいんですか?」
からかってしまったことを、弥生はちょっと後悔した。店長が弱音を吐くなんて、思ってもみなかったからだ。