かすみ雲に覆われたまちなみの、天気が良ければ富士山を拝める方角ではあるが、今月はまだその姿を見ていない。標高40メートル。タケルはフェンス越しの赤い空を眺める。もう半時間もすれば、終園のアナウンスを鳴らす頃合い。
本日もご来園いただきまことにありがとうございました。
ホタルノヒカリに重なる二小節目に女性の声が優しく歪んで帰宅を促す。ホタルノヒカリ。マドノユキ。マリンバの音が跳ね、掠れた声を押し流す。雨垂れほど規則正しくもなく、まっすぐ伸びない音の行く先を追う。裏返りそうなか細い声に、のどの調子がよろしくなかったのだろうかとつい心配になる。イタダキ。マドノユキ。アリガトウ。ゴザイマス。イツシカトシモ。ひび割れをふさぐ子供たちの歓声はもはや遠く。夕暮れの空には白い月が浮かぶ。スギノトヲ。マタノオコシヲ。何十回。何百回。何千回。繰り返すほどに、音はちぎれて掠れゆく。新しく吹き替えればいいのにと思うが新たに音声を用意しなければならないほどここに誰彼の集うでもなく。背中を押し出すわかれの合図。アケテゾケサハ。オマチシテイマス。気まぐれに屯する奇特な居残り者をひっそりと送り出す合図として、くすんだ声が粛々と流れる。ワカレユク。わかれ行く。さようなら。さようなら。さようなら。わかれてしまえばもう二度と会えなくなるような、そもそも、出会ってさえも居ない、しかし、憂いと親しみを帯びた正体のないその女の声が、さようならを言うたびに、タケルは狂おしく、胸が締め付けられるように感じていた。さようならと返しても、きっと答えてくれない冷たい声の、切実なさようならに、さようならを言うことでどんどん遠くに離れてしまうような、いよいよ絶対に近付けなくなってしまうような思いがして、さようならにさようならをこだまさせるように、祈りを込めてさようならと声に出す。また来ますから! しばしのお別れですから! 必ず来ますから! ヒーローの走り回った天空の園。女神の放つさようならが、タケルとヒーローの世界を分かつ。さようなら、さようなら、さようなら。訝る母の手を強く握り、本当にさようならなのと聞かずにはおられないまま聞けなくて、大人になって。今やこの声は、タケルの人差し指の先にある。
スイッチオン。そして、オフ。静寂。
さて、もうひと仕事だ。
タケルはフェンスに背を向けた。
ひなびた屋上遊園地の、観覧車はこの頃ずっと動かない。
ゲートには「調整中」の札がかかり、その柵は鎖に覆われている。ステンレス製の鎖はとってつけたような顔で一帯を封じ、誰をも寄せ付けぬ意思を見せた。赤色、青色、黄色の目にも鮮やかだったゴンドラは止まったまま赤錆に縁どられ、時折吹きつける突風にごとりがたりと音を立て頼りなく揺れる。屋上に暮らす烏はもう振り向きもしない。人を乗せないゴンドラは身をよじるたびに誰かのいちばんたのしかった思い出を吐き出し、転がり出でる思い出は誰に顧みられることなく夕陽に溶けた。忘れられた場所の観覧車は、このまちの墓標のようであり、タケルは自分をまるで墓守だと思う。
悪の組織の皆さん、あたらしい死体はありませんか。
土をかける作業も、花を手向ける安らかな心も、此処には必要ないのだけれど。天空に突き出す御印に向かい、墓守が恭しく敬礼する。ホタルノヒカリが二巡した。喫煙所にいた老人がゆっくりと立ち上がり、エレベーターホールに消えた。タケルは閉園の看板を立て、のぼりを仕舞い、エレベーターホールに鍵をかける。続いて、園内を一回りして落とし物を探す。といっても、それは本当に形だけ。今日は午後から殆ど誰も足を踏み入れていないのだから。忘れ物なし、落し物なし、と声に出して最後に喫煙所へ回る。巡回の足取りは、重くも軽くもない。
パシャ。