「その絵どうしたんですか?」
「これ?先日ルノワール展に親父と行ってきてさ。親父が行きたいって言うもんだから。」
その人の机の隅には、緑色の衣服を着て机に両肘をつき頭をもたせかけて眠っている女の子の絵葉書が飾ってあった。
その日は土曜日だったが、亜希子は前の部署の予算関係の集計の仕事が残っており珍しく出勤していた。
部署の異動を二週間前に告げられたが、年度の変わる繁忙期で前の部署の仕事を引き継ぐ時間もなく、そのまま仕上げてもらえないかと課長に言われ仕方なく引き受けてしまった。
その人とは、異動先の部署のチーフという肩書きの森田さんで、前評判通り真面目でいい人そうな人だった。
「土曜出勤?わざわざ?」
「ええ、珍しく。森田さんこそこんないい天気の日に?」
「仕事が遅いからね、俺。」
その人は冬の日の曇り空のように青白く笑っていた。
「昨日、飲みすぎたんだって?」
「ええ、少し。沢村くん達に迷惑をかけちゃって。」
前日、亜希子の送別会を兼ねて同期の営業の沢村が事業部で表彰された金一封で皆を誘って飲みに行こうということになり、ふぐ料理を奢ってもらったのだ。
もともと強くはないし会社の同僚とは少ししか飲まない亜希子が、眼の前に差し出された焼酎に手をつけたのも、上司のいない同世代と後輩のみの気楽な飲み会だったからか、二月の雪のちらつく夜だったせいか。
期待の新人、後輩の砂原が、自分の生い立ちを語っている。
「甲府の田舎で育ったんですよ。山里みたいなところで。小さいときは、沢蟹や昆虫を採ったり、山女魚を釣ったりで自然の中で育ったんです。」
「へぇ、砂原君、そんな少年時代を過ごしたんだ。井上陽水の歌にでてきそうな。」
亜希子は言って、井上陽水も沢村君は知らないよな、と思いつつ、親と子ほどとはいかないまでも亜希子と同じ干支の生まれという砂原君がまあ知らなくてもいいか、と思えるほど会社生活も年を重ねて、良くも悪くも落ち着きを保てるようになってきた。
「砂原、もともとは医学部を目指してたんだよな。」
沢村が言うと、
「はぁ、それも昔の栄光というか、なんというか。
地元の高校では、成績はいいほうというか、自分でいうのもなんなんですが、特に理系ではトップに近いほうだったんですが、いざ模試を受けたりすると偏差値が足りなくて諦めたんです。」
医学部かぁ。亜希子が遠い昔に学生だった頃、サークルにも医学部の人、いたなぁ、湯気をたてるふぐ鍋を前に霞む記憶が頭をよぎる。
「で、砂原君なんで医学部を目指そうと思ったの?」
亜希子が訊くと、
「実は妹が白血病で、医者になろうと思ったんです。」