小説

『スイカ丸の一日』義若ユウスケ(『雪女』)

 ピアノの音が鳴りやまない。妻が狂ってしまったのだ。ダイナミックな指使い。家が詩的にゆれ動く。
「これじゃあ眠れないわ」と青白い顔で娘がいう。「だから今夜は眠らない」
「勝手にしやがれ」と娘にいって、おれはクツを履く。お気に入りの赤いランニングシューズを履いておれは家を飛びだす。
 深海のような夜の街をおれは猛スピードで突っ走る。
「やっこさん、どこいくの?」「ねえあんた、行き先は?」とすれちがう人たちが口々にたずねてくる。どいつもこいつもおれの目的地を心底知りたがっているのだ。でもおれは教えてやらない。かわりに、あっかんべーして唾を吐いてやる。うぎゃあ、といってみんなすっ転ぶ。中には地面で頭を打って怪我をするやつもいる。べつにおれのせいだとは思わない。
 おれは夜道をかけていく。
 そしておれはたどり着く。行きつけのナイトクラブに。
 ドアを押し開けておれは中にはいる。店内はギンギラだ。七色の光が乱舞している。
 おれはカウンターに座ってピナコラーダとバナナスプリットを注文する。
「どうしたんです?」と若いバーテンダーが煙草を吸いながらいう。「最近、ピナコラーダとバナナスプリットばかりたのむじゃないですか」
「悪いか?」とおれはいう。
「悪くはないけど」
「気どってる?」
「そう、気どってる。まるで村上春樹やリチャード・ブローティガンの小説の登場人物みたいだ。ちぇっ、ちぇっ、気どってらあ」
「村上春樹やリチャード・ブローティガンの小説を読んだのさ、最近」とおれは上等なキューバ葉巻にマッチで火をつけながらいいはなつ。「すこし影響を受けた、それだけのことさ」
「うへえ、葉巻まで吸ってらあ」といって若いバーテンダーは首をふる。「やれやれ、あなたもとうとう村上春樹やリチャード・ブローティガンの影響を受けてしまいましたか」
「うん、まあね。だからこれからはこんな感じでいこうと思うんだ。どうかな、おれは上手くやれてるかな?」
「ええ、それはもう、完璧ですよ。百点満点です」といって若いバーテンダーはピナコラーダとバナナスプリットをテーブルに置く。
 おれはかぶりつく。マッハでバナナスプリットをたいらげる。
「おかわりですか?」と若いバーテンダーがきく。
「おかわりだ!」とおれはいう。

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