小説

『Re:帰宅報告』中杉誠志(『待つ』)

 終電間際の駅のホームは、悲しいほど混雑していた。いったい、このなかにいる何人が、現在の生活に満足して、幸せな気持ちで帰路についていることだろう?
 うっかり見ず知らずの他人に同情しそうになって、納見ヒロは頭を振った。
 入社三年目で終電帰りが常態化している時点で、他人に同情できる立場ではない。ヒロの職場はソフトウェア開発会社の開発部門で、納期が近づくにつれて残業時間が増える。終電で帰ることができるいまは、平時といってよかった。その、普段通りであるという気持ちのゆとりが、本来自分自身に向けるべき憐憫を、他人に横流ししてしまったのだろう。それに気づいたとき、初めてヒロのなかに強い自己憐憫の情が芽生えた。自分は、まともではない。そう思った。無性に笑いたい気分だった。
「まもなく、三番線に列車が参ります……」
 駅の自動放送に続いて入ってきたその日最後の電車は、五センチのズレもなく定位置に停車した。ホームの地面に描画されたドア位置のマークの直上にぴたりと吸い付くように来たドアが、エアコンプレッサーの吐き出す空気の音とともに口を開ける。夜のビジネス街で降りる人間はひとりもいなかった。
 列の前のほうに並んでいた乗客たちが、おのおの残った力を絞り出すようにして、空いた座席を目指して駆け出していく。ヒロは喜劇のクライマックスにも似た騒々しい光景を、列の最後尾から眺めつつ、その滑稽さに口元を緩めた。
 車室に乗り込み、手頃な位置のつり革をつかむと、ヒロはスマートフォンを取り出した。ほとんど無意識の動作でメール画面を開く。そして、件名欄に『帰宅報告』、本文に『いまから帰るよ』という簡素な内容を打ち込んだ。
 ヒロはひとり暮らしである。送信先に選ばれたのは、『納見ヒロ PC』――彼自身のパソコンのメールアドレスだった。
 いつからか、ヒロには、仕事帰りに、存在しない家族に自分の帰宅を報せるメールを送る、という、このおかしな習慣ができていた。当然返信などあるはずもなく、賃貸のワンルームマンションに帰って玄関を開けても、誰もいない。部屋にあるのは、ごくありふれた家具類に、帰宅報告の受信先である旧式のノートパソコンが一台だけ。このノートパソコンは、ヒロが学生時代から使い続けているもので、かつては娯楽目的やレポートの作成、就職が決まって以降はプログラミングの勉強のために使い倒している。帰りを待つ家族どころか、ペット禁止の賃貸マンションでは犬猫一匹すら飼うことができない。
 ではヒロは一体誰に向かって帰宅報告をしているのかといえば、それは彼自身にもよくわかっていなかった。とはいえ、ときとして人間には、一見無意味で、深く考えてもやはり無意味な行動に、一種の娯楽性を見出すことがある。
 つまりこの奇妙な儀式は、たまの休日にも寝て過ごす以外の予定を持たない無趣味な男が、つかの間に見出した娯楽なのだった。
ヒロは自分の行動をおかしく思いつつ、打ち込んだばかりのメールを送信する。そして、疲れに任せて、つり革に体重を預け、目を閉じた。

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