悲劇はいろんな場所でおこる。ボクはそんなあたりまえのことも忘れて力いっぱい走っていた。会社におくれそうだったのだ。そろそろ道が交差する、ということはわかっていた。でもボクはいけると思った。だから十字路にさしかかっても止まらなかった。そして彼女とぶっつかった。
たとえ時速百キロで車が突っこんできてもかけぬける自身のあったボクとぶつかったのだから、彼女のほうもちょっと考えられないくらいの速さで走っていたということは言うまでもない。
ボクたちはぶつかった。すこし変なぶつかりかたをした。進行方向へまっすぐにのばされた彼女の左腕に、ボクの胸部がぶつかった。力学的には完全にボクに分があった。
ボクは多少よろめきながらもなんとか走りきった。そしてすぐに立ち止り、おそるおそるふり向いた。
左腕がとれてしまっているかもしれないと思った。しかしどうやらその点は大丈夫そうだった。見ると彼女はまったくの無傷で、ただ、宙に浮いてぐるぐると回転しているのだった。
彼女は静かに、重力に逆らって地面からすこし浮いた状態で、くるりくるりとバレリーナのように回りつづけていた。いつまでたっても彼女の足はけっして地面に落ちず、回転の速度もけっしてゆるやかにならず、かといって激しくもならず、彼女は回りつづけていた。ボクは直感で、これは永遠に続く、と理解した。
ボクは罪の意識にふるえた。たったいまボクは、たしかにあの恐るべき速度でもって一人の女性を不幸にしてしまったのだ。
ボクはおそるおそる彼女に近づいた。きっと泣いている、そう思った。しかし近づいて見ると、どうやら彼女は泣いていないようだった。むしろその表情はおだやかで、幸福そうにさえ見えた。
「笑っているのですか?」
「はい、嬉しいんです」
「どうして、本当は悲しいんじゃあないですか?」
「いいえ、本当に嬉しいんです。だってこの世は色即是空、空即是色が常だもの。私はたったいま、こうして、悲しみから解放されたのよ。そうお思いにならない?」
色即是空空即是色摩訶般若波羅蜜多心経観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多是大神咒是大明咒是無上咒是無等等咒能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多咒即説咒曰掲諦掲諦波羅掲諦波羅僧掲菩提薩婆訶
般若心経