9月期優秀作品
『月の夜に舞う香りの切なさは』網野あずみ
庭に面したガラス戸を両手で引き開けると、暑く澱んだ空気を押し退けるように、夕暮れ時の少し湿った涼しい風が、畳の上をサッと滑っていった。長い間雨や太陽に晒され、荒れた木肌を露わにした濡れ縁に腰かけ、ボクは生け垣に囲まれた小さな庭を眺めた。
ふと思い立って仏壇の前へ行き、四角い枠に収まったおじいちゃんの気難しそうな顔を見ながら、晩酌用のお酒を供え、線香に火を点した。
長寸の線香から立ち昇る柔らかい煙が、伽羅の甘い香りを引き連れて、ゆっくりと居間の中を漂っていく。
「もう、そんな時刻かね」
ボクの背中の方から、おばあちゃんの少しかすれた声が聞こえてきた。
「あ、ばあちゃん。起きてたの?」
ボクはおばあちゃんが体を起こせるよう、スチールパイプのベッドの背もたれを調整してあげた。おばあちゃんはしんどそうに体を動かすと、ボクの顔をまじまじと見た。
「彩音は、今、中学生か?」
「なに言ってんだよ、ばあちゃん。ボクはもう、高校生だから」
「ほれ、またそんな男の子みたいな口をきいて。もっと、女の子らしくせんと。髪の毛だって、そんなに短く刈り込んじゃ、男の子に見えちまうよ」
「いいじゃないか、放っといてくれよ。ボクはボクなんだからさ」
自分のことをボクと呼ぶことに、違和感は全くなかった。
「そりゃあ、そうさ。アヤネは生まれた時から、ずっとアヤネだろうよ」
おばあちゃんは噛み合わないような返事をすると、乾いた笑い声をあげて、苦しそうに咳き込んだ。ボクは痩せて背骨が浮き出ているおばあちゃんの背中を、ゆっくり擦ってあげた。
「彩音は優しい。こうやって、相手をしてくれるのは、いつもお前だけだ」
「そうだよ。みんな、酷いよな。うちの親も叔母さん達も、ばあちゃんの所に全然来ないじゃん」
「和男も、正惠も、きっと忙しいんよ」
ボクは本当に腹を立てていた。自分の父親やその妹の正惠叔母さんは、おじいちゃんが亡くなって、おばあちゃんが独りきりで寂しがっているのが分かっているくせに、傍にいてあげようとはしなかった。しかも、こうして寝たきりになってしまった今でも、ヘルパーに任せきりで知らん顔だ。大人達は、みんな冷たい。
庭先に夜の気配が忍び寄ってくると、地面のどこかでケラが、ジジジと耳鳴りのような音をたて始めた。おばあちゃんはそれをミミズの鳴き声だという。違うんだよと何度言っても、ミミズだと繰り返し、「その証拠にな、庭の土を掘り起こせば、ミミズがわんさか出てくる」などと気味の悪いことを言うものだから、ぞっとしてしまう。