9月期優秀作品
『娘が言い出したことに』岸田奈歩
テレビの音、みそ汁をすすったり沢庵を噛んだりする咀嚼音だけが今夜も家の中に響いている。会話はいつもこのくらいだ。
「お父さん、肉じゃがおいしい?」
「肉じゃがより、きんぴらのほうがうまいな」
「そのきんぴら、買ってきたんだけど」
「あ、そうか」
またテレビの音と咀嚼音だけが響く。
妻が亡くなってから娘はたまに一人暮らしの家から様子を見に来るようになった。家族の会話は今まで妻を中心に成り立っていたが中心人物を欠き、娘も俺もお互い会話に戸惑っていた。会話をすればさっきのように買ってきたものを褒めて気まずく終わってしまう。
「私そろそろ帰る。そのうちまた顔出すから」
「そっか、暗いけど大丈夫か」
「大丈夫。じゃ、またね」
「おう、また」
娘は帰っていった。マンションのエレベーターまで歩く娘の足音がだんだん小さくなっていく。
本当はもう帰るのかと言いたかったが言えない。家に来て飯をつくり一緒に食べ帰る。いつも三時間くらいの滞在だ。もう少しゆっくりしていけばいいのにと思うが何か話すことがあるわけでもなく、自分の生活がある娘を引き留めることはできない。仕事は順調なのか?一人暮らしは不自由ないか?いい人はいないのか?聞いてみたいが俺が訊くのも余計なお世話なのではとためらってしまう。妻がいてくれればなぁと思うが、もうその妻がいなくなり三年が経つ。
娘とは微妙な距離感があるまま死ぬまでこの関係が続くのだろうか?そう思うと親子なのにとふと淋しくなる。
前回娘が家に来たときはまだ蒸し暑く扇風機を回していたが、北風の冷たさに半纏を羽織り、ストーブを出していると娘がやって来た。いつもは「ただいま」と言いながら台所に向かい黙って料理をし始めるのだが今日は様子が違う。
「お父さんの好きなたい焼き買ってきたからお茶入れるね」
台所に立つ娘の後ろ姿がいつもと違うように見える。今日は様子がおかしい。いつもは手際よく料理する娘なのに、お茶を入れるだけなのに急須をひっくり返したり、お茶の缶を落としたりとさっきからせわしない音が家の中に響いていた。
「熱いお茶がおいしい季節になったよねぇ」といつもなら絶対言わないようなことまで、しかも笑顔で言っている。
「このたい焼き有名らしくてさ。三十分も並んだんだよ」
娘はたい焼きを皿にのせようとしたが手を滑らせテーブルに落とした。
もしかして……。