9月期優秀作品
『イヤミのシェー』司真
寺は、青山通りの渋谷と表参道の中間にあった。地下鉄の表参道駅から人通りの多い狭い歩道を行くと、ビルの建設工事の行われている場所があり、その隣が永楽寺だった。境内は駐車場代わりに使われていて、抜けると、土塀を模したような黄土色のコンクリート塀に墓地へ続く小さな鉄の門が開いている。門の横には水道と洗い場があり、作務衣を着た老人が手桶を洗っていた。そばの大きな銀杏の木が葉を落とし、地面を黄色く染めていた。風はなかったが傘の心配が必要な空の色だった。
そこに父の墓があると教えてくれたのは、母方の伯母だった。三年前、従妹の結婚披露宴で、祝いの席でする話ではなかったが、伯母は最後に小さな声で、順ちゃんは今でも祥月命日に行っているはずよ、と言った。
母が父の墓参りをしている? 私はそのとき、テレビニュースのインタビューで、まさかあのまじめな人がそんな事件を起こすなんて、と言っている隣人の気持ちがわかったような気がした。
その披露宴にうちから出席したのは私だけだった。千葉に住む母は電話で私に、お前がうちの代表で行けば十分だ、と言った。夫の転勤で宇都宮にいた妹は、五歳と二歳の子供に手が掛かってとても東京まで出てこられる状況ではなかったようだった。
父は私が小学校六年のとき蒸発した。
ギャンブルの借金が理由だと、中学生になってから聞いた。夜中に借金取りが、母と私と妹が暮らすアパートのドアを激しく叩いたことがある。そんなとき母は、玄関の上がり口に正座し、ただじっとドアを睨みつけていた。私は、玄関から続きになっている台所と、六畳間を隔てる磨りガラスの引き戸の陰から、あんなに大きな音をたてたら近所に恥ずかしいという思いで、ハラハラしながら覗いていたのを覚えている。
父がいなくなって二年近く経って、母は旧姓の小林に戻った。私と妹は今井と小林のどちらも選べたのだが、学校のことを考え、今井のままでいた。
法律上の手続きがどうなっていたのか私は知らない。ただ、母と私と妹は、その時期に父の両親の住む仙台へ一度行っている。床の間のある日本間で、母は一人で祖父母と何か話していたのを覚えている。
鉄の門から先は、石畳の通路が続いていて、両側に隙間なく墓石が並んでいた。私は墓の場所を知らなかった。作務衣の男性に尋ねたところ、彼は寺の人ではなかったが、社務所に行って訊いてくれた。今井の墓は、門を入ってまっすぐ行き、三つ目の脇道を右に曲がった和田という大きなお墓の隣だということだった。
伯母に父の墓のことを聞いてから、母にそのことを訊ねてみようかと思ったことは何度もあった。しかし、結局私は最後まで母に訊ねることはしなかった。私がそのことを口に出したときの母の顔を想像すると、どうしても言い出せなかった。
考えてみると、母が旧姓に戻ってから、私も妹も父のことを話題にしたことはない。それは母も同様だった。