9月期優秀作品
『家族の湯かげん』籐子
娘との二人旅なんて、何年ぶりだろう。40年前に夫と訪れた新婚旅行の地に、美幸と二人で訪れる日が来るとは。当時よりさびれた温泉街に、時代の流れを感じる。
夫は温泉巡りが好きな人だった。いや、温かいお湯につかるのが好きな人、の方が正しいかもしれない。温かいお湯につかり、大好きな歌を歌いながら、ただぼーっとする時間が、何よりも至福の時だと言っていた。
夏でも毎日湯舟につかり、自慢の歌声を響かせていた。程よくかかるエコーは、夫の気分を更に盛り上げていた。
美幸が小さい頃は、父と娘の二人の歌声が、私の夕飯作りの最高のBGMだった。夫が亡くなってからも、湯舟につかる習慣は、私達の生活に染みついている。
「しばらく頻繁には会えなくなるから、せっかくならお父さんとお母さんの思い出の地に、旅行に行こうよ」
そう提案してくれたのは、美幸だった。
一人娘の美幸は、結婚してからも独り身の私を気遣ってか、実家の近くに暮らしてくれている。夫の俊介さんも、決して目立つタイプではないが、美幸と、愛娘の雫の為に寡黙に働く真面目な人だ。
彼は大学で数学の研究をしていて、海外の大学に出張に行くことも多い。具体的にどんな研究をしているのかは、聞いたところでよく分からないが、美幸曰く、街で三角形の模様を見ると、何やらひとりでぶつぶつと呟き、その辺りにある紙に難しそうな数式を書くらしい。きっと、私達とは全く違う脳の構造になっているのだろう。
美幸は、昔から本が大好きで、数学は大の苦手だった。でもそんな二人が出会って、恋に落ち、ひとつの家族になった。
人は、自分にはない考え方を持つ相手に激しく惹かれると聞くが、美幸と俊介さんは、まさにその代表格のような夫婦である。
俊介さんが出張で家にいない時は、美幸は雫を連れて私の家によく遊びに来る。
「お母さんが雫に会いたいだろうから」
美幸はそう言うが、家事と子育てから解放されて、のんびり休憩をしたいというのが本音だろう。私も美幸を育てているときは、毎日大変で、実家が近ければいいのにと何度思ったことだろう。結局、一番遠慮せずに頼れるのは、自分の母親なのだ。
美幸と雫が来る日は、二人がお風呂に入っている間に夕飯の準備をするのが、私の密かな楽しみである。美幸が、まだ小さな雫をあやす歌声を聞いていると、夫と過ごした時間を思い出す。
二人が来る日は、いつもよりごはんの品数を増やす。そして、必ず大人二人では食べきれない量を作る。
「余ったから持って帰ってくれない?」と言って、美幸に持って帰らせるためだ。
美幸は昔から、一人っ子は甘えん坊だという印象を持たれる事が嫌だった。何でも自分でやると言い、強がって素直になれない。少しでも家事を楽にさせてあげる為、美幸にごはんを持って帰らせるには、この方法が一番効果的なのである。
そんなある日、俊介さんの長期出張が決まった。オランダの大学で4年間、専門分野の研究ができるチャンスが来たという。