9月期優秀作品
『夏のにおい』櫻井きりめ
父に怒鳴られたのは、三年の夏のただ一度だけ。
大学進学と共に実家を出たきり、そのまま東京で仕事を始めて二年。
学生時代から自由奔放に過ごしていて、社会人になってからも旅行だなんだといって滅多に帰省しなかった私が、久々に帰ったその日だった。
実家のたたきは田舎の家らしく広々としている。私は娘を玄関の段差に座らせ、小さな花の飾りのついたサンダルを脱がせる。
「いらっしゃい、りえちゃん」
母の問いかけに、娘はそっと振り向くだけで、恥ずかしそうにうつむいた。久しぶりに会ったものだから、少し人見知りしているのだろう。一時間もしないうちにいつも通り騒がしくなることはお見通しだ。
「ただいま。ねえ、お父さんは」
「客間にいるよ。さ、早く上がりなさいな」
少し遅れて三人分の荷物を車から降ろした悟が追いかけてきて、母とにこやかに挨拶を交わした。
「おじいちゃーん!」
客間でお茶を飲んでいたらしい父を見つけてりえが駆け出す。父はこれでもかというくらいに目じりを下げて、りえを迎えた。昔の父からは想像もできないようなデレデレ具合に、私は苦笑する。私が子供の頃は、特に学生時代などは、私に対して本当に厳しかった。
友達の真似をして覚えはじめた化粧や短いスカートを父は好まなかったし、夜遊びや男の子との交際も認めなかった。厳しくされればされるほどに、反比例して私は自由気ままに振る舞うようになっていった。友達が増えていくのと同じスピードで、父との距離は開いていったように思う。
「さ、座りなさい。悟さんも」
「すいません、失礼します」
りえはちゃっかり父の膝の上に陣取っている。
「いいね、りえ。おじいちゃんのお膝に座らせてもらって」
悟がそう声をかけると、りえと父はそっくりな顔をしてにんまりと笑った。不思議なもので、りえと父は顔つきは違うけれど顔のつくりはよく似ている。こうして二人を並べてみると、遺伝というものの神秘に驚かされる。
あの時は夕方に近い時間帯だったのに、今日よりももう少し外の気温が高かった気がする。
麦茶のつがれた小さめのグラスが、手を付けられることなくじんわりと汗をかいていた。
ちりん、と軽やかな音色が耳をくすぐった。夏の初めに母がつるしたのであろう風鈴が、わずかな風の揺れを知らせていた。季節を大切にするところは、母のすごくいいところだと思う。