小説

『あなたのために』霜月透子(『鶴の恩返し』)

 女が生えている。
 最初なぜかそう思った。酔っていたからかもしれない。
 理由はともかく、自宅マンション前の植え込みにその女の姿が見えた途端、そう思ってしまったのだ。
 出張で近くまで来るという旧友と飲んでいたら終電に乗りそびれ、タクシーで帰宅したのだから深夜も深夜、かなりいい時間だったのではないだろうか。僕の住むマンションの辺りは住宅地で、駅前まで行かないとコンビニすらないような静かなところだ。こんな夜更けに人に会うとは思いもしない。それにその女は小さく蹲っていてまったく動く気配がなかった。そうか、だからその姿を見た時に「いる」ではなく「生えている」と思ったのかもしれない。
 旧友と楽しい時間を過ごし、全身に行き渡るほどに酒を飲み、心身ともにあたたかくまろやかになっていた僕は、とてつもなく大きな人間である気になっていたから、女を助けなければ、この女を助けるのは僕のほかない、などとよくわからない役儀に支配されてしまったのだ。
「どうかしましたか?」
 思い返すとなんとも間抜けな台詞だ。夜更けに女がひとり植え込みに蹲っている、これはどうかしているに決まっているじゃないか。声をかけるなら「どうしたんですか?」がふさわしい。――まあ、そんなことはいい。
 声をかけた直後に、まさか死んでいたりしないだろうな、と思い至る。だとしたらやっかいだ。第一発見者とやらになってしまう。警察に真っ先に疑われるやつだ。そんな面倒はごめんだった。
 しかしそれはすぐさま杞憂に終わった。女はちゃんと生きていて、僕の声に反応した。ゆっくりと上げた面は華やかさこそないものの、丹精込めて作られた和菓子のように繊細な美しさを備えていた。俄然、保護欲が掻き立てられた。我ながら現金なもので、つい先ほど感じていたよくわからない役儀は、たちまち自発的な気持ちへと切り替わる。
 手を差し出すと、ほっそりしなやかな手を僕のそれへ重ねてくる。壊れないようにそっと握り、しかし力強く引っ張って女を植え込みから引きずり出す。勢い余った女はそのまま僕の胸に飛び込んだが、すぐさま離れ、小さく「すみません」と呟いて恥ずかしそうに俯いた。
 再び上げた顔を見て僕はたじろいだ。エントランスから漏れる明かりのもとで見る顔は痣だらけだったからだ。見れば服も破れ、額や手に傷もある。瞬時に湧きあがった感情は恐怖だった。女のことを怖がる理由はないのだから、痣や傷の向こうに見える暴力に怯えたのだろう。すぐさまそのことに気付いた僕は僕自身を恥じた。そして代わりに怒りと悲しみが湧き上がってきたのだ。

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