小説

『あなたのために』霜月透子(『鶴の恩返し』)

 僕は女の意向も聞かずにその細い手首をつかむと自分の部屋へと連れて行った。今思えばずいぶんと大胆なことをしたものだ。怪しまれても怖がられてもおかしくない。だが彼女はおとなしくひょこひょことついてきたのだった。
 表で彼女の怪我を見た時は気が動転してしまったが、リビングのソファに座らせ救急箱などを用意してから見てみると、ほとんどの怪我は既に時間が経過しているものだった。痣は輪郭が黄味がかり始めていて、傷もかさぶたになっている。特に手当てを必要とする場所はないようだった。
 僕はほんの少しだけ安心して、でも今日が初めてではないのだと思うと安心したことに引け目を感じたりもした。
 そしてこんな夜更けに強引に――抵抗しなかったとはいえ、半ば有無を言わせない勢いで自室に連れ込んだことに罪悪感を持ち始めていた。
 そんな僕の気持ちを察したのか、彼女は丁寧に頭を下げた。
「ご親切にしていただき、ありがとうございます」
 美しい声だった。澄んでいる、といえばいいのだろうか。幼い頃遊んだ故郷の細流を思わせた。
 またしても僕の心を読んだのか、彼女はにっこり笑みを浮かべた。
 ああ、そうか。この人はこうやっていつも誰かの顔色を窺っているのだ。波が立たないように、傷つけられないように。それでもなおその人物はこの人を傷つけるのだ。
 どうすればいい? どうしたらいい?
「あの……」
 彼女が我が身を掻き抱きつつ縋るような目で僕を見上げる。
「厚かましいお願いですみませんが、しばらくこちらに置いてはいただけないでしょうか」
 ほらな。やっぱり彼女は人の心を読むことに長けている。

 
「健一さん、おかえりなさい」
 帰宅すればチャイムを鳴らすだけで玄関のドアが開く。
「ただいま、翔子さん。ああ、いい匂いだ」
「今日はシチューよ。ほら、先に手を洗ってきて」
 僕は使わなかったキーケースを棚の上のトレーに置き、洗面所へと向かう。彼女が来てから鍵を使っていない。玄関の開け閉めは彼女がやってくれるからだ。その省かれた手間以上の充足感に僕の顔は緩みっぱなしだ。
 彼女は僕の側にいない時も僕の中に満ちていて、ふとした瞬間に溢れだしてしまう。誰にもなにも言っていないのに、職場では恋人ができたんだろうと冷やかす者までいる。

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