小説

『キツネに嫁入り』高平九(『狐の嫁入り』)

 妻の乳房の上に白いチョウチョウが止まった。ベッドのシーツがはだけて、右の胸だけがさらされていたからだ。もう昼近い時刻なのだろう。窓から入る明るい春の日差しが妻の顔や胸を優しく照らしていた。
旅先の空気を感じたくて、さっきカーテンと窓を開けた。するとベッドに戻ろうとするわたしのスキをついて一匹のチョウチョウが部屋に侵入した。
 チョウチョウは紅茶色の乳首を細い脚でつかみ、あまつさえ口吻をつきだして吸い出した。その所行を憎らしく思ったわたしは、手を伸ばしてチョウチョウをとらえようとした。息を殺し、はじめのうちはそろりと、そのあとは一気にチョウを襲った。が、チョウチョウは余裕でその攻撃をかわした。
 チョウチョウはひらひらと窓の外へ飛んでいった。わたしの掌は妻の乳房の上にむなしくあった。そのぬくもりを感じていると妻が目を覚ました。大きな瞳は眠そうだったが、すぐにてらてらと艶がかかる。どうやら勘違いをしているらしい。冷たい指がわたしの掌を包んで下の方に導いた。で、またはじまってしまった。
 二度の交わりのさなか、あのチョウチョウが入ってくることはなかった。その代わり疲れて眠ってしまうと夢の中にチョウチョウがやってきて妻の蜜を吸った。
 遅いランチをホテルのラウンジでとったあと、わたしたちは散歩に出た。
 ホテルの裏手にはハイキングコースがあった。森の中を進むと吊り橋に出る。人ひとりがやっと通れるような幅の橋で、足下に板が敷かれているものの、多くの吊り橋がそうであるように、すき間からはるか下方の川が見える。岩の間を渓流がのたうって流れている。妻はわたしの背中に身体を押しつけて、きゃーきゃーと若い娘のようにはしゃいでいた。
 橋を渡りきって、さらに川沿いに進むと滝がある。幅の広い流れが三段に分かれて落ちている。その白い姿を背景にして頬を寄せながら自撮りをする。妻の息がわたしの顔にかかり、求められるまましばらく接吻を交わした。まわりには誰もいなかった。
 散歩のあいだ、たくさんのチョウチョウを見たが、あのチョウチョウはいなかった。

 翌朝、同じようにして待ったが、チョウチョウはとうとうやって来なかった。仕方なく妻の乳房に手を置いて、昨日と同じように二度交わった。その間もチョウチョウが姿を見せることはなかった。
 昼過ぎにホテルをチェックアウトして、送迎バスに乗り込んだ。バスの窓からホテルの部屋の窓を見上げたが、それらしいものは飛んでいなかった。

 バスが駅に着くと、ひどい喪失感に襲われた。

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