小説

『キツネに嫁入り』高平九(『狐の嫁入り』)

「ねえ、もう一泊しようか」
 わたしがそう言うと、妻はえっ?という顔をして、
「どこかに寄り道をしたいの?」と聞いた。
「いや、もう一度さっきのホテルに泊まらない?」
「それはどうかしら。いくら素敵なホテルでももう3日目よ」
「いやかい?」
「いやじゃないけど……仕事がね」
「もう1日だけ休めないかい?1日だけ」
「休めないこともないけど……」
 妻はわたしの目の奥を覗き込んだ。わたしがどこまで本気か見極めているのだ。
「いいわ。もう1日だけ。あなたの退職記念の旅だものね」
 話を聞いていた運転手がホテルに空室があるか問い合わせてくれた。ちょうど1部屋キャンセルが出たというので、ホテルに戻ってもう一度同じ部屋に泊まりたいと言った。フロント係は怪訝さを笑顔の下にうまく隠してルームキーを渡してくれた。
「それで、これからどうする?」部屋に入って荷物を置くと妻が言った。
 何もやることがないので、とりあえず二度交わった。
 翌朝、また同じように窓を開けると晴れた空から雨がざっと降ってきた。
「狐の嫁入りね」
 妻は雨音で目を覚ましてしまった。今日はシーツで胸を隠している。これではチョウチョウはやって来ない。雨音がゆっくりと弱まり、湿った空気の中にまた春の光があふれた。
 チョウチョウはとうとうやって来なかった。
 昼過ぎに昨日と同じ送迎バスに乗って、昨日と同じ駅に着いた。先にパスを降りた妻が振り向いて、
「よかった。また戻ろうとか言い出すんじゃないかと思った」
「もういい。あきらめた」
「あきらめたってなんのこと?」
「いや……」
「うわーおいしそう」わたしの答えを聞かずに、妻は土産物屋の店先で湯気を立てている饅頭に目を奪われた。妻が試食を勧められ、饅頭の一切れを食べるあいだ、わたしはぼんやりと駅前の風景を見ていた。土産物屋が櫛比し、観光客が店を回って商品を漁っている。外国語も聞こえてきた。明るいピンクのジャケットを着た外国の女性たちは妻が買おうか迷っている饅頭に目をつけた。たちまち饅頭の蒸籠の周りをピンクが取り囲み、妻は爪楊枝を手にしたまま、押しのけられて戸惑っている。と、そのピンクのジャケットの後ろから突然白いチョウチョウが現れた。間違いない。あの白いチョウチョウだった。

1 2 3 4 5