小説

『家霊 ~玲子の場合~』朝海珠瑚(『家霊』岡本かの子)

 

 

「信じらんない、また浮気されたっ! これでもう何人目⁉」

 ガンッとビール缶を机に叩きつけ、玲子は元彼たちへの恨みを叫びに込めた。

 時刻は夜九時半を過ぎたところ。遠慮もなく叫んでいれば隣近所の迷惑になる時間である。それでも玲子が全力で恨みを発散できるのは、感情が高ぶっているためと、彼女の部屋が角部屋であるためと、

「三島さん、ダメ男製造機だって前にも言ってましたもんね……」

 唯一の隣人である生野が、目の前で親子丼を食べながら玲子の話し相手になっているためである。

「誰がダメ男製造機ですか」

「三島さんが自分で言ってたんですよ」

 忘れたんですか、とぼやきながら、生野はふわふわの玉子がからんだ鶏肉を口に運んだ。


 はじまりは、およそ一年前。その頃の玲子は、自分の仕事にやりがいも価値も見いだせないでいた。

 事務員という存在が、会社にとって不可欠であるということはわかっているし、自分の仕事が意味のないものだとは思わない。ただ、何年も続けるうちに、ふと疑問が生まれてしまった。毎日毎日、同じ作業の繰り返し。誰がやっても同じだとか、どうせあのあたりはすぐ結婚して辞めるだとか、そんなふうに言われているのも聞いてしまった。

(私がこの仕事をしている意味ってなんなの……?)

 玲子は完全に、働く意義を見失っていた。心が、目の細かいやすりで削られたように、わずかずつざらつき、小さくなっていく。

 そんなときにふと出会ったのは、とある小説だった。なんとなく、ふらりと立ち寄った本屋で、偶然目にとまったのだ。

 悩みを解決できるような何かがあったわけではない。大きな賞をとった作品というわけでもなかった。ただの、どこにでもありそうなファンタジー小説だった。でもなぜか、玲子の心の、ほんの少し欠けてしまったところに、するりと入ってきたのだった。

 玲子はそれから、その著者である徳永キリヤの作品を探して読むようになった。ほどなく既刊をすべて読み終え、新刊を待つようになった。相変わらず、仕事の意義は見失ったままだったけれど、徳永キリヤの小説は、そんな玲子の心を少しだけ修復してくれるようだった。

 ある日玲子は、ファミレスで当時の彼氏と待ち合わせをしていた。時間になってもやってこない彼氏に連絡しようとスマホを取り出したとき、隣のテーブルに男女の二人組が座った。

(あれ、もしかして、たしか隣の……生野さん、だっけ)

 近所づきあいはないため話したことはなかったが、隣のためすれ違う機会も多く、さすがに顔を覚えていた。向こうもこちらに気づいたようで、一瞬表情を固まらせたあと、ほんの少し会釈してきた。玲子も同じくらいの目礼を返す。

(うーん、顔見知りとの遭遇って気まずいわ……。しかも、たぶんデートよね)

 移動したくても、まだ彼氏が来ないためできない。おとなしくソフトドリンクをすする。隣では、さっそく会話が始まった。

 盗み聞きする気はなかったが、距離の近さから、どうしても声が耳に届いてしまう。悪いと思いつつなんとなく聞いているうち、どうやらデートではなく仕事の打ち合わせかなにからしいということに気づいた。なおさら聞いてはまずいと思ったが、彼氏はまだ来ない。

「――それで、このシリーズも次巻で最後ですし、そろそろ次の構想をお願いしたいんですけど、徳永先生」

(……え、今、なんて言った? シリーズ? 構想? 徳永先生⁉)

 思いも寄らない発言が耳に入って、思わず玲子は隣に目を向けてしまった。

「ええ、そうですよね、わかってます……。ちょっと待ってください。まだ何も考えていなくて……。すみません」

「ちゃんとご飯食べてないからじゃないですか? だめですよ、忙しさと料理音痴を言い訳にして、栄養食品ばっかり食べてたら」

「ですよね……」

 ――今思えば、ずいぶん非常識なことをしでかしたと思う。話したこともない人相手に、隣のテーブルから急にくちばしをつっこんだのだから。

「あの、だったら! うちで、ご飯を食べませんか⁉」


 あの後、驚きで固まる生野と警戒をあらわにする編集者に自己紹介と乱入の弁解をしたり、彼氏の浮気が発覚し別れたり、いろいろあった。本当にいろいろとあったが、とにかくこうして今、玲子と生野は、週に数回玲子の家で一緒に夕飯を食べている。

「本当にありがたいです。だからやっぱり、せめて材料費をもう少しお支払いしたいと……」

「いえ、今のままで大丈夫です! 完成した本、いつも一番にもらって、読ませてもらってますし。むしろありがとうございます」

 ご飯の提供の代わりに玲子が望んだのは、見本本として送られるうちの一冊を読ませてほしいというものだった。非常識か、図々しいかと不安になりながらの希望だったが、生野が快諾したため、彼女は晴れて徳永キリヤの小説を誰よりも早く読む権利を得たのだった。

 話は冒頭、またもや玲子が浮気をされたところに戻る。

「おかしいんですよ……。昔から、付き合う男全員に浮気されるんです。全員ですよ⁉」

「見る目がないんじゃないですか?」

「三人目くらいから、誠実そうな男を選ぶようにしてたんですよ、もう浮気されたくないと思って。なのにダメだったから、周りの人の評価まで参考にするようにして、今度こそ大丈夫だと……。もしかして私、呪われてるのかも。どんなに真面目で誠実な人間も浮気男や遊び人に変えてしまう呪いみたいなの」

「まさかそんな」

 ははは、と生野は笑うが、ちょっと顔が引きつっている。それほど、玲子の男運は悪いのだ。

 黙ってタレの絡んだ米をスプーンで運びだした生野を、なんとはなしに眺める。つやつやの米が口に吸い込まれていくのを見るうち、なぜだかふっと、数年前の祖父との会話を思い出した。


「まぁた相手の男が浮気したか、玲子」

「……なんでわかったの、じいちゃん」

「顔見りゃわかる」

 台所に立つ祖父はさらっとそう言った。

「そんなにわかりやすい……? ていうか、何つくってんの?」

「見りゃわかるだろう。どじょうを捌いてんだよ。どじょう汁をつくるんだ。うまいぞ」

「じいちゃん教師だったんだよね? なんでどじょうなんて捌けるの」

「そりゃ、うちは代々どじょう店だったからだ。『いのち』なんて名前でな。どじょう汁は看板メニューだったのさ。どじょうを食うってのが流行らなくなって、俺の母さんの代で廃業しちまったけどな。だから俺は家業を継ぐなんてことには悩まされずに、好きな仕事選べたってわけだが」

 やっぱり血は争えないもんなんだなあ、と、唐突に祖父は言いだした。

「なに、突然。たしかに私も、料理は好きだけど。ご飯屋やってた家系の遺伝だって言いたいの?」

「いや、そこじゃない。男に浮気されるってところだ」

「どういうこと。まさか、先祖代々男運悪いわけじゃないでしょ」

「そのまさかだよ」

「嘘でしょ」

 遠い記憶を思い出すように祖父は目を細めた。

「もう、とっくの昔に亡くなってるが……。ばあさん、玲子にとってはひいひいばあさんか? そのくめ子ばあさんが、言ってたんだよ。うちの家系の女は代々、旦那に放蕩されるんだって」

「えー……? そんなことある?」

「あるらしいんだよ。ばあさんは言っていた。うちの家系の女は代々、この家の霊に縛られているんだと。帳場という檻に閉じこめられ、客にいのちを提供しながら自分はいのちをすり減らされて生きるしかないのだと。そのうえ、かならず旦那には放蕩される。ばあさんは、もともと家業自体が嫌いで、そんな縛りに囚われたくなくて、家を出て職業婦人になったらしい。でも、外の仕事も、結局は帳場の仕事と大差ないと気づいて、結局継ぐことにしたんだと」

「へえ……」

 聞きながら、私だったら喜んで継ぐのに、と思った。当時の玲子は就活中で、とくにやりたいことがなく、就職先もまったく決まっていなかった。何も考えずに仕事を得られるなら、それでいいじゃないか、と、目の前に無条件で仕事がぶら下がっているのにわざわざ他に職を求めた先祖をうらやんだ。

「でも結局、じいさんも遊び人だったようだし、俺がものごころついたときには、ばあさんはだいぶ生気のない人だった。……だから俺は、聞いた。どうして、それでもその仕事を続けていられるのかって」

「ひいひいばあちゃんは、なんて答えたの?」

「ある人の話を聞いて、見方が変わったんだ、と言っていた。その人のおかげで、どじょうも嫌いじゃなくなったし、ただいのちを奪われるだけだと思っていたこの仕事に、誇りを見つけることができた。だからこれまで続けることができたんだ、と、仏壇のかんざしを手入れしながら話していたよ」

「仕事に、誇り……」

 そんなこと考える余裕なんてないな、とこのときの玲子は思い、流した。なかなか就職先が決まらない身にとっては、誇りうんぬんは二の次だった。

「ねえ、どうして仏壇にかんざしがあるの?」

「ばあさんの母親の、形見だったらしい。俺の母さんが生まれる前にはもう亡くなってた。とても大事にしていたかんざしだったそうだ。ガキだった俺の目から見ても、それは見事なものだった」

「へえ。高かったのかな」

「さあな。……そういやばあさんにも、大事にしているものがあった」

「なに? 着物とか?」

「いや、絵だ。ばあさん、特に芸術が好きとか、そういうわけじゃなさそうだったのに、やけに価値の高そうな絵を数枚、持っていた。まるで魂をそのまま写し取ったような、妙にすごみのある絵だった。亡くなるまで大切にしていた。これが自分にとってのかんざしなんだと。そして、おまえの母さんにはいまだにそれがないから、『いのち』は終わるかもしれない、と……」

 最後はまるで独り言のようにつぶやく祖父を、そのとき父が呼んだ。

「父さーん。父さんあてのハガキが来てるよ。確認してー」

「今、飯をつくってるところだ。あとで見る」

 返してから、祖父は玲子に向き直った。

「で、なんの話だったか。……ああ、おまえの男運の話か」

「え? その話、もう終わったと思ってたんだけど」

「いや、ちょっと逸れたが、その話をしたかったんだ。

 なんでばあさんの話を出したかっていうとだな。代々旦那が放蕩するってことだけじゃない、ばあさんがそのことについて、こうも言ってたんだ。だけどその代わりに、」

「代わりに?」

「えーっと……なんだったか……」

 うーんとうなって考え込んでしまった祖父は一分後、

「だめだ。思い出せねえ。忘れちまった」

と苦笑した。

「ちょっと、期待させといて! そこ重要なところでしょう! ボケがひどくなってるんじゃないの?」

「違う! 何十年前の話だと思っとるんだ。誰だって忘れるわ!」

 言い返すと、祖父は昔語りの間に完成していたどじょう汁と白いご飯を玲子に差し出した。

「まあ食え。いのちを血肉にして、気合い入れろ」

「……いただきます」

 なんだかすっきりしないまま、初めて食べたどじょう汁は、平凡においしかった。


「……三島さん? 三島さーん」

 はっと回想から帰還する。生野が心配そうに顔をのぞきこんできていた。

「あっ、すみません。ちょっと、思い出したことがあって……」

「思い出したこと?」

「はい。数年前に、祖父が話してくれたことを」

 会ったことのない先祖の思いを自分に重ねる。絶対に嫌だと思っていた仕事に、誇りを見つけられた人。自分は、好きでも嫌でもない今の仕事に、何かを見つけることができるだろうか。

「仕事に誇り、か……」

 ぽそ、とつぶやくと、耳ざとく生野が追求してくる。

「さっきまで元彼のことであんなに荒れてたのに。いつ思考が切り替わったんです?」

「あ、違うんです。話が変わったんじゃなくって、つながってるっていうか。思い出したのが、祖父の祖母についての話なんですけど――」

 話し語りながら、きっと生野は仕事にいのちを懸けているんだろうな、と思った。くまをつくり、食べることも忘れてふらふらになっている生野を、何度も見た。そうやってつくりあげられた物語が、玲子のいのちを慰めてくれる。

(生野さんに聞けば、私にも何かつかめるかも)

 一瞬そんな考えが頭をよぎったが、やめにした。自分だけのなにかを見つけなければ意味がないような気がした。

「おじいさん、重要なところ思い出せなかったんですねえ。まさに、今の三島さんがほしい部分」

「そうなんですよ! 今度、また聞きにいこうかな」

 ――夜は深まっていく。

 これからも、玲子と生野の所縁は続く。