小説

『誰が為にベルは鳴る』太田純平(『頭ならびに腹』)

 

 

 真冬の北関東を列車が走っていた。二両編成の急行電車。窓の外は山野が冬化粧をしている。乗客は一両目に三人。一人は若いビジネスマン風の男である。中央のロングシートの片隅に座り、黒いコートのポケットに手を突っ込み虚空を眺めている。あとの二人は若いカップルである。車両の連結部に近い優先席でイチャついている。二人とも暑がりなのかコートを脱いでいて、男のほうはペイズリー柄のシャツのボタンを二つも開けているせいでインナーの黒いTシャツが露わになっている。女のほうは白いブラウスに赤のフレアスカート。左手の黒いブレスレットをじゃらじゃら揺らしながら男の髪型をツンツンと弄んでいる。

 とその時、やにわに車内の警報が鳴った。非常を知らせる信号か。「緊急停車します」という自動音声が流れ、金属をこするような音とともに列車は急停車した。

「なぁに、やだぁ」

 女が甘ったるい声を出す。

「なぁに、どうせたいしたこたぁねぇよ」

 彼氏が女の肩を抱きながら嘯く。 

「オイオイ何事だぁ!?」

 二両目からやって来た中年が叫んだ。彼に続き二人の乗客が一両目に移って来る。不安そうな顔の老婦人と女子高生である。

 そうこうしている内に乗務員室から運転士が出て来た。

「えー、ただいま車内の非常ボタンが押されました。押された方、いらっしゃいますか?」

 運転士の言葉に互いが互いを見やる。乗客は全部で六人。しかし名乗り出る者は誰もいない。

「オイ誰だよ押したヤツ! 私は急いでるんだッ!」

 粗野な眉毛の中年が粋がる。男の発狂に車内の空気は一気に険悪になった。漆黒のブレザーを着た女子高生も、紫色のパーカーコートにベージュのマフラーを巻いた老婦人も、怯えた顔で口を噤んでいる。

「お前じゃねぇのか?」

 中年の男は一人だけ座ったままの男に矛先を向けた。

「お前が押したんだろう?」

 問われたビジネスマン風の男は静かに頭を振った。超然か達観か。彼の鷹揚とした雰囲気は余計に中年を攻撃的にさせた。

 そんな嫌なムードを払拭しようとする試みか、老婦人がすっとぼけたように運転士に訊いた。

「それにしてもこの車両、随分と非常ボタンが多いわねぇ? まるでバスの降車ボタンみたい」

 名札に“飯島”と書かれた運転士は、白髪と黒いチノパンが対照的な老婦人に柔らかく答えた。

「あぁ、この車両は元々、都内を走っていたものでしてねぇ。ほら、だいぶ前に都内であったでしょう、政治家を狙った爆弾テロ」

「あぁ、ニュースで見たわ。まだ犯人が捕まっていないんでしょう?」

「えぇ、その影響で、非常ボタンの数を増やすよう急遽お達しが出たんです。自分たちが狙われたらすぐに動く。いかにも政治家らしい――」

「どーでもいいけどよォ!」

 今度は運転士と老婦人の会話をカップルの男が遮った。

「どーせ誤作動だろ? とっとと出発してくれよ」

 彼氏の発言に「そうよ。アタシたち急いでるの」と女も同調する。

「そう言われましても――」

 飯島は制帽を取って頭をぽりぽりと掻いた。

「まぁ、何事も無かったんですから……ねぇ? 運転士さん」

 品のある老婦人の言葉がその場の空気を後押しする。

「まぁ、どなたも押していないということであれば、誤操作ということで……」

 頼り無く言うと、飯島は乗務員室へ小首を傾げながら戻って行った。司令に連絡をしているのか、男は無線機で外部とやり取りをしてから運転席に座った。

「お待たせしました。運転を再開します」

 飯島の声が流れると、程なくして列車は動き始めた。中年の男が肩を怒らせながら二両目に戻って行く。女子高生も老婦人もカップルに遠慮してか、決まりが悪そうに中年の男の後に従った。

 再び怠惰で朦朧とした意識が車内を包み込む。いつしか列車は鬱蒼とした森の中へ。吹雪のせいで視界が悪い。

 と、その刹那、また意想外の警報が鳴った。一体なにが起きたというのか。カップルさえ暫く黙っていた。列車がどことも知れぬ場所で急停車する。二両目からやって来た三人もすぐには言葉が無い。

「どなたですか? 押したのは?」

 飛び出して来た飯島が一同に言った。誰もが暗然たる面持ちで下を向いている。

「何かありましたか? イタズラですか? ハッキリ言って下さい!」

 また誰も答えない現状に飯島は苛立ちを隠せなかった。

「オイ誰だよ押したヤツ! ぶっ殺してやるッ!」

 噴火寸前だった中年がついに爆発する。

「ちょ、ちょっと、そんな物騒な――」

 老婦人が諫めても男は止まらない。

「俺は今から仕事なんだ! 遅刻だよ遅刻ッ!」

 中年の怒りの渦はカップルの男に伝播した。

「てか俺たちも急いでんスけど。早く犯人名乗り出てもらってイイっスか。マジむかつく」

 しかし誰も名乗り出る者はいない。

 中年の男が運転士の名札に目を凝らす。

「飯島さん? よォ、誤作動なんじゃねぇの誤作動じゃあ。アンタら鉄道会社の不手際なんじゃねぇの?」

 名指しされた飯島は、善良そうな表情から一転、毅然とした態度で男に告げた。

「いいえ、誤作動ではありません。どなたかお客様の手で、一度ならず二度も非常ボタンが押されたのです。原因が特定出来るまで、当列車は一切出発いたしません」

「な、なんだとォ!?」

「これはイタズラで済む問題ではありません。一人ずつ、怪しい動きをした人を見なかったか、訊いていきたいと思います。では、まずはあなたから、お名前と、警報が鳴る直前の状況を――」

 そう言って飯島は黒い制服のポケットから手帳を取り出すと、まるで探偵のようにカップルの彼氏を指名した。

「俺? 俺は、青山慶介。俺はずっと百合と一緒だったぜ。互いが互いの証人だ。だいたいよ、俺たちが非常ボタンなんて押すわけねぇんだよ。何故かって? へへーん! 俺たちはなぁ、これから役所に婚姻届を出しに行くんだよ!」

 問われる前に彼女のほうも喋り出す。

「そうよアタシたち結婚するの! あ、私は藤袴百合。藤に袴のハカマでフジバカマ。てか私たちが犯人なわけないから。だってそうでしょう? こうしてずっと二人きりでいたんだから。ねぇ~慶介~?」

 百合が上目遣いで慶介を仰ぎ見る。飯島は速記のようにメモをとると、カップルの隣にいた中年の男に目をやった。

「なんだよ。俺がなにを言うんだよ。お前警察でもねぇのに何の権限があるんだよ。俺は岩永だよ岩永! 岩永謙治! 俺は他のやつの動きなんか知らねぇよ。俺はこれから仕事――あーもうぜってぇ遅刻だよ! 俺がいなきゃ工場は回んねぇんだよ! どうしてくれるんだよッ!」

 飯島は男の怒りを受け流すように「そちらは?」と女子高生にバトンを渡した。

「わ、私は、東雲さやかです。わ、私は何も――。こ、これから学校に――。今朝はちょっと、寝坊してしまって――」

 目の奥に光が無いさやかは、車内のとげとげしい雰囲気にやられているのか額に汗を掻いている。そんな彼女の隣に寄り添うように立っていた老婦人は、言葉が足りない女子高生を庇うように自ら語り始めた。

「私は竹下キヌと申します。外はアレだけど車内はずいぶん暖かいからねぇ。ついさっきまでウトウトと――。だけど、みなさん何もしてないと思いますよ。気配がしなかったから。やっぱりこれは、機械の故障なんじゃないかしら」

 全長15メートル程の車内。その扉付近に立っていた者たちの証言が終わると、自然と一人だけ座っている男に視線が集中した。

「あの、あなたは――?」

 飯島が声を掛けると、若いビジネスマン風の男は相変わらずコートのポケットに手を突っ込んだまま返事をした。

「俺? 俺は、何も――」

 口数が少ない男を不審がって岩永がすかさず噛みつく。

「お前、それだけかよ? 名前は!?」

「袋小路、卓斗」

「さっきから偉そうに座りやがって――お前が押したんじゃねぇのか!? 二両目では誰も押してない! こいつらカップルも押してないっつーんなら、残るはお前だけじゃねぇか!」

 岩永のもっともらしい言い分。すると袋小路はポケットに手をやったままコートを開いて、下に着ているリクルートスーツを彼らに見せた。

「これから面接でね、就職の……ニートなもんで……まっ、もう面接には間に合いそうもありませんが」

 大事な面接があるのにわざわざ非常ボタンを押すはずがない。彼の態度にはそう信じさせるのに充分な悲壮感が漂っていた。

「で? これで結局なにが分かったんだ?」

 慶介の問いに飯島が頬を掻く。

「一つだけ分かったことがある」

 答えたのは意外にも岩永だった。

「この中に嘘つき野郎がいるってことさ」

 彼の一言に車内は凍りついた。確かに一理ある。誰もがそう思ったからこその沈黙であった。

「畜生。埒が明かねぇな」

 重苦しい空気の中、また岩永が口火を切った。

「提案なんだが、ちょっと後ろに戻りゃあ各駅停車が停まる駅がある。そこで次の電車を待ったほうがよっぽど生産性があるんじゃねぇか。それでなくとも物騒な世の中だ。こんな嘘つき野郎がいる電車に乗ってたんじゃあ、何されるか分かったもんじゃねぇよ」

 色褪せた黒のダウンジャケットの下に、ボタンの取れた黄色いチェックシャツと、さらにその下に穴の開いた白シャツがのぞいている。そんなだらしない男であっても、今この瞬間だけは騎馬に乗った司令官であった。

「そ、そうだ。この電車は危険だ。危険電車だ」

 今まで対立感情を露わにしていた慶介も岩永の提案に乗っかる姿勢を見せた。もともと大人しい女性陣は意見があってないようなものである。

「ちょ、ちょっと待って下さい。この吹雪の中を歩くおつもりですか?」

「俺たちはとにかく急いでるんだよ。力づくでも行かせてもらうぜ」

 飯島が止めるのも聞かず、岩永は運転席の中に入って行くと、簡単なレバー操作をして非常口の扉を開けた。

「お、お待ち下さい! 危険です!」

 飯島が最後まで引き止めたが、岩永を先頭に、慶介と百合、そして女子高生のさやかや老婦人のキヌまで外に出て行ってしまった。

 線路沿いを歩き去る彼らが見えなくなると、飯島は非常口を閉めて車内に戻った。

「まったく……彼らはどうかしている」

 愚痴のような独り言を呟きながらも、飯島は一人だけ残った袋小路を称えた。

「あなたは賢明な方です」

「……俺が?」

「仮に各駅停車に乗ったとしても、先行して走るこの急行を追い抜くことは出来ない。従って本当に急いでいるのであれば、この列車に乗り続けていればよかったんです。まったく、どうして彼らはそんなことも――」

 飯島の言葉に袋小路は初めて口元を緩めた。 

「簡単な話ですよ。彼らは本当は前に進みたくないんです」

 飯島の頭に疑問符が浮かんだのを察して袋小路が続ける。

「例えばあのおばあさん。彼女の鞄から老人ホームの資料がはみ出していました。これから体験入居に行くのかもしれないし、家族に疎まれて無理やり行かされるのかもしれない。あの女子高生は手首に包帯を巻いているのが見えました。何か学校に行きたくない理由があるのかもしれない。あの職務熱心な中年も、裏を返せば仕事仕事の毎日に限界がきているのかもしれない。すぐにカッとなる性格からいっても職場で上手くやっているとも思えませんし。あのカップルだってそうです。嫌でも話し声が聞こえてきたのですが、どうやら彼らは二人とも派遣社員らしいのです。本当は彼氏のほうは結婚に二の足を踏んでいるのかもしれないし、彼女のほうも不安だからこそ必要以上にベタベタしているのかもしれない。つまり、です。つまり、あの非常ベルは、誰かからのSOSだったのかもしれません」

 飯島は何となく頷いて見せたが内実は驚愕していた。ただ呆けているだけに見えたこの男こそ明察秋毫な傑物だったからである。何故なら自分は、本当はどこの車両のどの非常ボタンが押されたのかを知っている。いくら急ごしらえの装置とはいえ、それくらいの機能は備わっている。つまり自分はあえて犯人の名前を言わなかった。何故か。退屈だったからだ。絶望するほどに。日常が――。

「もう何かもぶっ壊しちまえばいいのに。そう、思ったことはありませんか?」

 不意に袋小路が呟いた。まさか自分の心を読まれたか。黙ってしまった飯島に「なーんて、冗談ですよ」と袋小路が薄笑いを浮かべる。寒気がした飯島は乗務員室に戻り運転再開を急いだ。

 空虚を運んで列車が動き出す。袋小路は誰もいなくなった車内で気怠そうに天を仰ぐと、自らが起こした都内の事件を想起して「ドカーン」と独りごちたのだった。