小説

『花』宮沢早紀(『唱歌「花」』)

 凍雲を背景に鮮やかな黄色のロングコートを纏った陶ちゃんが駆けてくる。昨日までの陶ちゃんはネイビーのスーツに身を包み、髪を低い位置でまとめていた。じっと見ていると口の中がすっぱくなるくらいのビタミンイエローのコートは暗い服ばかりのこの季節の風景から明らかに浮いていて、川沿いを歩く人々の視線を集めていた。そんな光景に、陶ちゃんが流行などに関係なく着たい服を着るタイプだったことを思い出したのだった。

 わたしたちは休みが重なると、目的地を定めずに語らいながら町を歩いた。陶ちゃんいわく、考えごとをしながらその町のことも知ることができ、健康にもなれる。その上お金も使わない素晴らしい過ごし方ということらしいが、わたしは長時間居座ることを咎められないカフェがあるのなら、そこでのんびりしたいとほんとうのところは思いつつ、けれども陶ちゃんに誘われるがまま、今日も川にかかる橋のたもとで陶ちゃんを待っていた。

「研修、終わっちゃいましたね」

「研修自体はつまんないけど、ああいう機会がないと同期のみんなとも会えなくなるよね」

「そうですね。あ、ちょっと聞いてくださいよ。研修の後、人事から『あなたは一言多い』って注意されたんですよ」

 陶ちゃんは入社以来、圧倒的な積極性を発揮しつづけ、研修中は何度も手を挙げて発言し、グループワークでは発表も担当していた。発表の最後に「喜ばないお客様ももちろんいらっしゃいますけれど」とか「マネジメント層の意識が変わらないと難しいですが」とか言っていたのを、人事部から「一言多い」と指摘されたらしい。

 陶ちゃんの言っていることはおそらく事実ではあるが、うちのような古めかしい社風の会社でも陶ちゃんがうまいことやっていけるように、不利にならないように、という人事なりの配慮なのかもしれないと思った。

「一言多いくらいじゃないとうもれてしまいます。少なくとも、わたしはそう言われて育ちました」

 不満げな陶ちゃんの横顔を見て「陶ちゃんは全くうもれてないから、大丈夫だよ」と伝えた。もともと優秀な上に人一倍努力家な陶ちゃんは同期の中でも抜きん出た存在で、店舗でも間違いなく際立っているはずだ。世界一人口の多い陶ちゃんの母国だったらうもれてしまうのかもしれないけれど、少なくとも日本の、うちの会社だったら大丈夫。全くもって問題ない。

「吉田は、ここを歩いたことはなかったですか?」

 陶ちゃんが尋ねてくる。苗字の呼び捨てと敬語が共存する陶ちゃんの話し方はちょっとくすぐったい感じで、好きだった。入社式で陶ちゃんと出会った時にこれから何と呼んだらいいかと聞かれ、特にあだ名などがなかったわたしは、迷った末に「吉田で」と答えた。その呼び方が誰に対しても敬語である陶ちゃんの元からの話し方と組み合わさって、不思議なものになっていた。

「うん。川沿いっていうか、河川敷を歩くのは初めて」

「よかった。一度、歩いてみたかったんですよ」

「けっこう整備されてるんだね」

「台風をきっかけにきれいにしたみたいです」

 陶ちゃんは立ち止まると川の方へ体を向けた。ピンと伸びた背筋は背の高い陶ちゃんをさらに大きく見せた。これが正しい姿勢なんだろうな、と横に並びながら思う。次第に自分は今までの人生で正しい姿勢でいたことがなかったような気がしてくる。就活用の写真を撮る時だって背中をまっすぐにしましょう、もっと胸を張って、もっと、と何度もカメラマンに言われた。

「はーるのー、うらーらーのー、すーみーだーがーわー」

 隣にいる陶ちゃんが息を吸い込んだかと思ったら、大きな声で歌い出したので面食らってしまった。春でもなければ隅田川でもない。慌てて周囲を見回す。犬の散歩をしていたおばさんと目が合い、おばさんはすぐに視線を逸らした。河川敷に座っていたおじいさんも怪訝な顔でこちらを見ていた。

「どうしたの、急に」

「川と言えばこの曲ですよ。日本語学校で習いました」

「わたしも中学の時かな、授業でやった。タイトルが意外なんだよね」

「そうですそうです、春でも隅田川でもなく、花なんですよね」

「あれ? 花だっけ? 忘れてた。意外なタイトルってとこまでは覚えてたのに」

「ハハ、そこまで覚えていたんですか!」

 陶ちゃんとわたしはケラケラ笑った。わたしたちの笑い声はさっき陶ちゃんが歌った時よりも大きくて、周りにいる人がこちらを見ていたが、もうあまり気にはならなかった。

 その後も陶ちゃんとわたしはとんでもないクレーマーが来たとか、店長が不機嫌すぎて大変だったとか、近所の専門店で立てつづけに盗難が起きたらしいとか、仕事にまつわるあれこれを語りながら河川敷を南へ南へと歩いた。

「前に話した公募なのですが、通ったんです」

 一時間以上歩きつづけて、少し歩き疲れてきた頃、陶ちゃんが言った。三ヵ月くらい前にインドネシアの店舗開設に伴うスタッフの選抜試験を受けると言っていた。

「おめでとう! すごい、陶ちゃんやったじゃん!」

 公募の知らせが回ってきた時、陶ちゃんならきっと手を挙げるだろうと思ったし、挑戦してみようかな、とおなじみの街歩きをしていた時に言われた時も陶ちゃんなら通るだろうと思っていた。

「ありがとうございます。結果が出るまでずっと気になっていたんですけど、よかった」

 陶ちゃんは照れくさそうに笑い、先ほどの歌をもう一度、上機嫌に歌った。

「いつから行くの?」

 歌い終わるのを待ってから尋ねる。

「春になったらです。三月の中旬くらい」

「どのくらい行くの?」

「お店が軌道に乗るまでみたいです。十ヵ月くらいでしょうかね」

「けっこう長いんだね」

「そうですね。でも、帰国する頃にはあっという間だったなーって思うんだと思います」

 いつでも陶ちゃんはたくましい。陶ちゃんは楽しげに遠くの空を見上げた。現地での生活を想像しているのだろうか。きっと、早く赴任したくて春が待ち遠しいのだろうなと思った。

 歩きつづけているから体は温かくなるはずなのに、春になる頃を想像していたら、今がまだ冬だという事実を突きつけられたような気がして、先ほどよりも寒く感じた。開けていた上着のボタンを一番上までかける。

「ついに陶ちゃんが遠くへ行っちゃうんだなぁ……わたしのこと、忘れないでね」

 冗談交じりに言うと、陶ちゃんは立ち止まった。

「忘れませんよ。友達じゃないですか!」

 そうだった。アニメでしか聞かないようなセリフを陶ちゃんは自然と言ってのけてしまうのだった。わたしは自分の隣に今、確かに陶ちゃんがいることを実感する。

「ありがとう」

 社会人になってから新たに知り合う人というのは、やっぱりどうしても格好つけてしまうし、利害関係があるから仲良くするみたいなことも場合によってはあるのだけれど、思えば大学生になった頃から少しずつそんな気配はあったのだけれど、陶ちゃんのわたしに対する向き合い方というのは、そういうものが一切なくて――少なくともわたしにはそう感じられて――こんなにすごい人が、自分のことを友達と思っていてくれることが不思議だった。

「入社式で声をかけてくれたの、覚えてますか?」

「え? うん」

 入社式はグループ合同形式で、わたしたちはライブができそうなくらい大きなホールに集められた。これはあとでわかったことだけれど、席順は配属先ごとになっていて陶ちゃんとわたしは配属店舗は違うけれど、エリアが同じということで席が隣だった。

 式が始まるまでの間、既に知り合っている子たちは楽しそうに話していた。はじめは何とも思っていなかったが、思いのほか長い待機時間に居心地が悪くなってしまい、隣にいた陶ちゃんに勇気を出して話しかけてみたのだった。陶ちゃんはピンと背筋を伸ばして座っており、待機中もその姿勢がひと時も緩まないことにわたしは感心していた。すごく真面目そうな子だと思った。

「小売志望だったんですか?」

 ほんとうはメーカーを志望していたのにどこからも内定がもらえず、とりあえず受けていた小売業の今の会社が唯一、内定をもらえたところだったので、自分と同じ人がどれくらいいるのか気になって、いたらいいなと密かに期待もして、聞いてみたのだった。

「そうですね。実はわたしは中国で育って大学で日本へ来たのですが、会社から奨学金をもらっていた縁があり、この会社へ来ました」

「なるほど……」

 会社が運営しているアジア圏からの留学生向けの奨学金の存在は新聞か何かで取り上げられていたので知っていた。すごく狭き門だということも。その後、わたしの就活の苦労話みたいなことを話して、吉田と呼ばれることが決まって、入社式が終わったら連絡先を交換して……というような出会いだった。

「あの時、吉田が声をかけてくれてほんとうに助かりました。社会人として日本でやっていけるんだろうかという不安があったので」

 陶ちゃんにも自信がない瞬間があるのかと驚くとともに、何だかいいように捉えすぎているのでは、と思ってしまった。

「そんなふうに言ってくれてうれしいけど、あれはさ、周りの子たちがしゃべっている中で自分だけひとりぼっちになりたくなかったから話しかけたみたいなところがあって……自分が落ち着きたくてやったことなんだよ」

 言いながら、自分はどこまでも自己中心的でちっぽけだと思った。

「でも、それでわたしは救われました。ぽつんと一人で立っていたところにはい、って花を一輪渡されたような気分でした。ブーケではなくて一輪の花。ささやかだけれど、温かい気持ちになるような。あの瞬間、ああ、この人と友達になりたいって思ったんです」

「ありがとう」

 ようやく素直に言葉を受け取ったわたしを見て、陶ちゃんはおだやかにほほえんだ。

 客足が戻り、例年以上に年末年始が忙しかったせいか、冬はあっという間に過ぎ去った。早朝に浅草駅で空港へ出発する陶ちゃんを見送ったあと、わたしは一人で隅田川沿いを歩いていた。

 桜のシーズンではあるけれど、朝早い時間だからか思っていたよりも歩きやすかった。呼吸するのを忘れているのではないかというくらいの集中力で対岸の桜にカメラを向ける人々を追い抜きながら、わたしは今日に至るまでのことを思い出していた。

 異動の話を聞いたあと、わたしは陶ちゃんに会うのがつらくなってしまった。陶ちゃんはこんなに頑張っているのに、自分はなんてダメなんだろうと考えるようになってしまったのだ。優秀な陶ちゃんはいつかは遠くへ行ってしまうだろうとは思っていたが、実際に異動の話を聞くと、さみしさと嫉妬を覚えた。陶ちゃんとわたしは人生における努力の総量みたいなものが明らかに違って、わたしが慌てて努力しても、その間に陶ちゃんも前に進んでしまうから、その差は到底うめることができないのに、だ。

 陶ちゃんと自分は違うのだ、これがわたしなのだと差を認め、自分自身を肯定できればいいのだけれど、そうはならなくて。そうは言っても同じ会社の同期なんだし、と比較してしまった。このあきらめの悪さというか、自分自身への過度な期待みたいなものに苦しみ、中高生ではあるまいし、まだそんな気持ちが自分の中にあるのかと驚きもしたのだけれど、これがなかなかなくならないのだった。

 そんなようなことをうじうじ考えていたら、結局、あの日の散歩が陶ちゃんとの最後の散歩になってしまった。陶ちゃんからは何度も誘いの連絡が来ていたけれど、ちょっと忙しくて、とごまかしていた。

 寒さが和らいでくるにつれて、もしかすると陶ちゃんはわたしのこういう未熟な脆さをよくわかっていて、だから入社式でわたしが声をかけたことをあんなにおおげさに感謝してくれたのかもしれない、と思うようになった。あれは陶ちゃんからわたしへ差し出された一輪の花だったのかもしれない、と。その思いが確信に変わった時には、もう陶ちゃんの出発の日がせまっていたのだけれど、泣きそうになりながら陶ちゃんに電話をかけて東京行きの夜行バスを予約した。


 朝日を浴びて水面が光っている。春のうららの隅田川。間違いなくあの歌で描かれた景色だった。陶ちゃんのように大きな声で歌うことはできないけれど、心の中であの歌を口ずさみながら、わたしはいつもより少し胸を張って歩いていった。