小説

『ハナキン・スカイウォーカー』紅井無蘭(『吸血鬼伝説』)

 パニエからはみ出した太ももに、踊り場の鉄板が冷たそうな冬の夜。

 わたしは、掃除用モップのモフモフした先っぽを、上へ続く階段の踏み板に乗せる。踊り場に体育座りしてから、ゴスっぽい革のブーツで、モップの先を踏ん付けるようにしてリクライニング。柄に腕を絡めると、ちょうどよくはまる。

 ホールの締め作業をバックレてぼんやりしていると、裏口からショウコが出てきた。暖房の効いた生温い空気が、ほんのりと汗の酸っぱい臭いを抱きこんで流れてくる。彼女は下っていく方の階段に腰かけた。大きく開いた襟ぐりから、血色の良い肌がのぞいていて、平手打ちしたらきれいに手形が付きそう。

 遠く鴨川の流れがビルの間に飛び交う。ショウコがタバコをポケットから取り出す。こだわりのピストル型のライターをカチカチ。口が暇なのでショウコが、ぶっきらぼうに

「ねぇ、ハナキン・スカイウォーカーってぇ、知らん?」

「え、なにそれ。知らん知らん。スター・ウォーズ?」

 内心で五億回くらい「だっさ~」と叫んでいたら、ショウコがタバコの煙を吐き出す。

「ちゃうちゃう。ツイッターで流行ってる、んー、ビルの間を歩いて渡る吸血鬼、かな? 金曜日にだけ、目撃されるから、『ハナキン・スカイウォーカー』って、言うんやって。こう、飛ぶってか、歩く感じで空に浮いてるんやって」

 ショウコがおどけて、両手をひらひらさせるので、「ぷはっ!」

 吹き出したら、息が真っ白に飛び出して、わたしまでタバコを吸っているみたいになった。いくら何でもダサすぎて、なんかもう本当にアホくさい。

「それはいくら何でもダサいやろ」

「ねー、ダサすぎて寒いわ。ってか、それスマイリーのピアス? え、めっちゃカワイイ!」

「でしょ。えへへ。また買っちゃったー」

「えーーー、一緒に二重にするお金貯めようねって言ったのにーーー」

「あははは、ごめんて」

 風が吹いて、バイトの制服が風になびく。二世代くらい前の原宿系の白黒のゴスロリメイド服。フリルをこれでもかと盛った裾の広い黒のミニスカワンピースに、白いクラシカルブラウスのアンミラ。足には底の厚い革のブーツ。ちゃんとバックルで止めてある。

 大学に進学して、友達のショウコに誘われるがまま入ったコンカフェ。だけど、嫌いじゃない。お客さんも、それなりにマナーが良いし。けど、マナーの向こうには、呆れるような色の世界が広がっている。いろんな欲望を少しずつ混ぜ込んだような、不思議な色。匠のそういう色はすんなり受け止めてあげられるのに。

「今日って、金曜日やったっけ?」

「うんー。彼氏が迎えに来はるんかー、ええなぁ」

 南関東出身のくせに「無理な関西弁使うな」って毒づきながら、ポケットから鏡を出す。アイプチを指で整えながら、「ええやろ。彼氏じゃなくて友達やけど」と生返事。

「またまたぁー」ショウコのラッキーストライクがもろにかかって噎せる。

「タバコきらいー」

「タバコは嫌いでも、ウチのことは嫌いにならないでください」

「敦ちゃんかよ、懐かし。てか、逆やろ」

「っぷ、「「あははははは」」

 ショウコが下の踊り場にある防火バケツにタバコを投げて、一発で入れた。ショウコはいつも通り、わたしを振り返って、「ラッキー……」

「ストラーイク!」ハイタッチで答えて私も立ち上がる。

「よっしゃ、閉めよか」

「あーあ、ハナキン・スカイウォーカー、見てぇー……」

 ショウコがつぶやいて、わたしは視界の端に、満月を背負ってぎこちなく飛ぶ一羽の蝙蝠を見つけた。匠はもうこっちに着いてるんかな。


 匠と友達になったのは、語学の授業でのことだった。同じチャイ語の授業で、向こうから話しかけてきた。オーバーサイズのストリートっぽいパーカーに、タイトなジーンズ。白いソールがちゃんと磨かれた、黒のスニーカー。朗らかな笑顔に、短めの明るい茶髪。

「鷺沢さんやんな、ちょっと先週のノート見せてくれへん?」

 きっとマッシュの陰キャだったら答えてなかったけど、彼はベリーショートが素直な少年らしくて、中々かわいかったから、答えた。

「うん、えーっと……、北川くんやっけ」

 大学のわたしは眼鏡陰キャ、且つ、人の名前と顔を覚えられないタイプだ。自信ないうえに、ゴリゴリの陽キャ君に声をかけられたので、動転も動転。顔が真っ赤になったのが、自分でも分かる。その恥ずかしさでさらにテンパる。

「え、名前、憶えててくれたん! めっちゃ嬉しい」

 あぁー、なんと素直な。住む世界が違うんだなぁ、と心の中で嘆息。きっと、単にわたしが眼鏡陰キャだからノートとかもちゃんと取っているだろうと、それだけで話しかけてきたのかなぁ。友達になれたら、まぁ御の字か。それも申し訳ないか。云々、独りごちた。

「俺、めっっちゃ鷺沢さんのこと、気になっててん」

 何となく、友達。まだ何もしてないし、キスとか告白とか。金曜日は彼の授業が遅くまであるので、せっかくだから匠と遊んでから帰ることにしている。

 わたしはロッカーのメイク落としで入念に顔を拭って、悩んで悩んで選んだリップを引く。さっさと普段着に着替えて、店を飛び出した。

 十二月の寒風から避難するように、集合場所にしているバーに転がり込んだ。

「お、お待たせー……」

 お店に入るときは、いつも小声になる。わたしみたいなお子ちゃま、お断りという空気。電球色の間接照明は、それだけの格式と落ち着きを示す。なんでいつも、大学に行くときの格好して来ちゃうんだろう。いつもこのお店だって分かってるのに。

「あ、ごめん。お待たせ」

 匠の席の近くで改めて声を謝ったら、匠は心底不思議そうに「なんでなんで」と私に尋ねてきた。こんなことで謝らなくても、という心の声が聞こえてくる。お疲れ様、とも。

 スツールからわざわざ降りて、わたしを迎えてくれるジャケット姿の匠。

「寒かった? 暖かいお酒飲む? ひざ掛けは?」

 あぁー、これこれ。これなんだよなあ。慣れてんだよなぁ。両手でわたしの腕を取ると、匠は自分の席へ私を引っ張る。何度聞かれてもわたしは俯いて「うん、大丈夫」と答えることしか出来ない、って分かっていても何度でも聞いてくれる。きっと匠でなければ、わたしは押しつけがましさに辟易してたと思う。なんだろう、わたしって面食いなんかな。

「今日も真っ白やん。寒かったやんな?」

「白いのは、いつものことやって」

 匠はまるで採血するときのお医者さんみたいに、何度もわたしの腕の内側をさすった。そう、わたしと匠は、会う度にちょっとした儀式を執り行う。匠の男の子を感じさせない、真っ白な指が、わたしの内腕に浮かぶ青筋を探る。執拗に、体の内側を全部見るみたいに。彼の潤んだ瞳が、つーっと何度もわたしの一番白い部分を撫でる。色のないはずの、戯れ。なのに、心臓が早鐘を打つので、匠に聞こえないくらい密かにため息を吐く。匠が一言。

「マスター、いつもの」

 セイウチみたいなお鬚のマスターは、生姜が香るジンジャーハイを出すと奥に退いた。お店の中は、わたしと匠しかいない。彼はテーブルにうつぶせになるように肘を広げて、わたしを覗き込む。潤みで溶けそうな上目遣いの瞳が、わたしを捉える。

「涼花は本当にきれいやね」

 聞こえるか聞こえないかのぎりぎり。ホットジンジャーを両手で包んで、わたしは一口飲み下す。わたしの体から出る音が全部聞かれているみたいで、身震いする。ショウコに答えるときみたいな軽口も出てこなくて、静かに頷く。テーブルにグラスを置いたら、わたしよりも冷たい匠の手が伸びてきた。

「なぁ」

 ねぇ、って言ってほしかった。女友達みたいに、ねぇ、って。でも、それもちょっと違うか。でも、匠の「なぁ」には強めに男の子が混ざっていて、ちょっと嫌だったりする。匠はゆっくりとわたしの腕を引っ張った。潤んで、涙がこぼれそうなほど張り詰めた、やんちゃな黒い瞳は、わたしを小さな女の子にする。男も女もなかったあの頃の、戯れの女の子が頷いた。

「する、な」

 その一言が儀式の開幕を告げる。匠は胸のポケットから、淵が赤黒く錆びた銀製の携帯裁縫箱を取り出す。いかにも古い。昔、匠のお父さんが、契約の証として貰ったものらしい。

 幾本も並んだ針が、照明を反射して眩しい。太い刺繍針を取り出した匠は、置かれたピートの薫るスコッチで消毒。スコッチで指を湿らせると、わたしの肘の内側から手首にかけての部分も消毒した。酒精の蒸発が体を冷やすのに、腕にしみこんだ酒精が熱を生み出す。その矛盾が匠と重なって、体の芯が浮ついたように熱を持つ。哀願するような、微かな希望を忍ばせた目。匠がわたしを見つめてくる。

 わたしは針の先端を見つめる。針が、針が。静かに、わたしの真っ白な内腕に触れる。産毛がそれに気づいて逆立ちながら、匠を待ち受けた。

「ん」

 わたしの甘えた声は、いつも我慢できずに洩れた。まだ何もしていないのに、針がわたしの境界を越えて、入ってくる違和感を期待している。鋭く尖った針が、ささやかな意思を伴って割り込もうとしている。小さく皮膚が裂けて、先端が入ってくる。右腕にジンジャーのような熱が静かに広がって、わたしの息はただ上擦っていく。喉が渇いた。

 きつく足を閉じてしまった。これもいつも。閉じれば、匠をつかむようなつもりで。けど、彼は「力、抜いて」と冷たい息でわたしに命じる。匠はあっさりと針を抜いてしまう。わたしの白い腕に、紅い瑪瑙のような玉が浮かぶ。だんだんと大きくなって、表面張力に負けると玉は静かに滴った。

「ハナキン・スカイウォーカーって知ってる?」

「うん」

 初めて聞いた、匠の冷たい返事だった。わたしの質問をはぐらかすように、匠はいつも以上にわたしの血に没頭する。冷ややかな舌が、産毛を撫で上げつつ、わたしの血を舐めとっていく。ジンジャーの温もりが、わたしを内側から広げて血は止まらない。匠はただ静かに、わたしの腕に唇を当てて、微かな息も漏らさない。匠に全部吸い尽くして欲しくて、彼の髪をかき抱く。かすかな息が漏れて、産毛を揺らした。くすぐったかった。

 気が済むまで吸って、彼は上体を起こした。匠の目が、わたしの首筋に注がれる。

 力の抜けた彼の目の潤みは一層の輝きとともに、さらに深いものを求めていた。でも、それを許したら、匠と友達をやめなきゃいけない気がする。なんだか、本物になっちゃうみたいな。でも、「友達辞めるの、嫌やな」って言葉が勝手ながら先に出てきて、匠に『待て』をさせる。それ以外なら、どんなことだってしてあげたいけど。

「ちゃんとしたい」

 だめだめだめ、あかんて。小さくかぶりを振った。

 でも、今日の匠はいつも以上に、深い愁いを見せる。どうしても退かない。スコッチよりも深く、ここにあるどんなお酒よりも濃い、悲しさが、匠の酒精となっている。血筋みたいな深さ。いいよ。男の子がしたいこと全部叶えてあげる。けど、首だけはほんとうに、だめ。唇を噛んだら、血の味がする。口いっぱいのこの味を全部、匠に差し出すから。わたしは祈るように、匠の瞳を覗き込む。

「ほんまに、あかん?」

 わたしは瞬きを三回して、彼の美しい指を見つめて答えた。影がない。そのまま、いいよって言ってしまいそうなほどの、全身の冷たさの分だけ熱く甘え散らかすような声だった。

「うん。ごめんね。でも、うちら、友達やんか」

 あえて、一度も言ったことはなかった言葉を言ってしまった。焦りに任せて、言った。なんか、もういいや。匠なら、わかるでしょ。お友達だもん。

「そっか」

 ドアが開いて、風がさらりと抜けていく。一羽の蝙蝠が飛び込んできて、匠が腕を伸ばす。綺麗に伸びた匠のジャケットが、黒い翼のように拡がる。翼で顔が隠れる間に、微かに涙の混ざった声。

「友達やしな。ごめん、甘えたわ」

「う、うん?」

 疑問ともつかない声で、わたしは答えた。何一つ追いつけないまま、起きていることを直視している間に匠がお店を出ていく。後を追いかけると、真っ黒の靄がはるか頭上まで伸びて、その先にビルの間をパルクールみたいに軽やかに渡っていく、夜よりも深い黒の、後姿がある。人にも蝙蝠にも見えた。

 興奮したショウコの電話をぼんやり取る。

「いるって! ハナキン・スカイウォーカー! 今日二度目の目撃談」

 わたしは話してあげようかと思ったけど、やめた。下品な話はするもんじゃない。

「見た見たー」

 もう会うことないんだろうな、別にいいけど。