小説

『ミラー・パニック』柿ノ木コジロー(『鏡騒動』)

 ただいまー、あ~疲れた、といつものあいさつで塾から帰ってきたら、玄関先にママが立っていた。

「あ……おかえり」

 それだけ言って、おしゃれな花柄のカフェエプロンで無意識のうちに手を拭いて、また拭いて、をくり返している。

 いつもてきぱきとしているママにしては珍しい。何だか元気がない、というか途方にくれてるみたいな顔で、それでもこう訊ねてきた。

「先にお風呂? ご飯? パパは、まだ帰ってないけどね」

 玄関先には大きくて細長い段ボール箱が倒れていた、梱包を解いた後のようだ。中のプチプチシートも白いプラのテープっていうのか、あの紐も拡げっ放し切りっ放しのまま。あたしは大きくそこをまたいで、中に入って行く。

「先にご飯食べたいな。てか、あれ何? なんか買ったの」

「前から言ってた、鏡がね、やっと届いて」

「えっ? 姿見買ったの?」

 うちに大きな鏡がなかったから、何かと不便だったんだよね。

「見たい!」

 どこに置いたの? そう聞く間ももどかしくあたしはリビングを通り抜けて奥の部屋に行こうとして……ダイニング手前で立ち止まった。


 誰か座ってる。


 テーブルに肘をついて、ものうげに顔を伏せている。

「?」だれ? と訊こうとしたとたん、顔をあげてこちらを見て、声を発した。

「まこちゃん、おかえり」

 ママが立ち上がる。

 ん? なんか変じゃない? 

 おそるおそる後ろを振り返る。そこにいたのも、ママだった。

 ママが、ふたり? しかも、同じブラウスに同じエプロンだし。

「帰ってきたの?」奥の和室からまた、ママが出てきた、同じ格好のママが。

 その後ろに、大きな姿見がのぞいていた。

「……どゆこと?」

 どのママに聞いていいのか分かんなくて、あたしはじわじわと反時計回りで視線をひとりひとりに移していく。どのママも、弱り切った顔だ。

「ママにも分かんない」

 三人が同時につぶやいた。「鏡を見てたら」

 アタシはかばんを投げ出して、姿見の前に立った。そこに映った自分の姿を見て、黒い飾り気のない木製の縁に触れて、また姿をみて……

 気づいたら、あたしの隣にあたしが立っていた。

「ん? ドユコト?」くやしい、先に言われた。

 そっと脇の自分に手をのばす。

 同じグレイのTシャツ、ハーフ丈のジーンズ、髪もチャリをこいできたせいでやや乱れている、ポニーテールを留めているシュシュも、同じニャンコの柄だった。

 あちらもあたしに向かって手をのばす。手の先が触れ合った。

 ちゃんと実体はあるようだ、温かい手の感触にあわてて手をひっこめる。

 なんか吐きそう。思わず手を近くのカーテンで拭った。

「もうなにコレ」

「でしょ?」ついて来たママが言った。どのママか、もう分からない。

「夕方届いたんだけど、配達の人が開けてくれて、帰ってからすぐ、こうなの」

 がちゃりとドアが開いて、「ただいまー、あー疲れた。あれ何だよこのゴミ」

 パパが、眼鏡の縁を押し上げてリビングへと入ってきた。

「お客さ……うわっ」

 パパは私たちとママたちとをいっぺんに見ようとして、そのまま凍りついていた。


 パパは話をひととおり聞くとまず、姿見を見に和室に入って行った。

 と思ったらすぐに「わー!」という、ひねりも何にもない、そのまんま文字に書いた通りの叫び声が響く。

 青ざめたパパが、リビングにゆらりと姿を現した。

 そしてその後ろから、また、青ざめたパパ。しかも、もうひとり、その後ろからパパが、やっと止んだかと思えばまたパパ、そしてなぜか次にママが、続けてまたママ、意外にも最後にあたしが。

「鏡……何なんだ、アレは」

 一番お終いに出てきたパパが弱々しくつぶやく。眼鏡を外して額の汗を拭いている。

「あの鏡は、きっと、きっと故障しているに違いない」

 二番目に出てきたパパが、最初に出てきたパパを押しのけるようにリビングのソファに座りこんだ。最初に出てきたパパはむっとしたように彼を睨みつけ、仕方なくダイニングの椅子に腰かける。三番目のパパはごく自然に片手を立ててソファにいた二番目のパパに場所を空けてもらい、並んで座った。最後のパパはうらめしげな目線を座っている二人にくれながらも、ソファの脇に立った。片手でわずかにソファに触れているのは、これは俺のものだと無言で圧力をかけているようだ。


 それほど広くない家の中には、今ではかなりの人がひしめいている。

 パパ四人、ママ五人、あたし三人の計十二人だ。

 ダイニングテーブルには一応ワンセット揃った。パパ、ママ、あたしひとりずつ。

 キッチンにはママが三人、並んで立っている。一番奥のママは意味もなく、出来あがったカレーのお鍋をかきまぜている。

 あたしはふたり並んで、廊下に座っていた。もうひとりいたママは

「ちょっとお風呂みてくるわ」

 呆然とした足取りで、バスルームへと向かっていった。

 

「駄目だ、これじゃ」

 急にソファに手を添えていたパパが、大きな声をあげて皆のまん中あたりに進み出た。

「誰が本物か、はっきりさせなくちゃ駄目だ」

 眼鏡をいつものように押し上げ、冷静な口ぶりに戻そうと努力している。語尾が震えてる。

「このままみんなでここにす、住むわけにい、いかない。つまり……つまりこの家は俺と、トモコと、マコの、三人の……三人だけの家なんだから。つまりオリジナルだけここに住む権利が」

「オリジナル? はあ? お前がオリジナルだって証拠はあるのか?」

 ダイニングのパパが目をぎらつかせている。かなり、怒っている。スピード違反だと言われて警察に捕まった時くらい、怒っている。

「お前がホンモノだって証拠は? えっ?」

 あまりにも怒って立ち上がったので、膝をテーブルに思い切り当てて、脇に座ったママとあたしはあわててテーブルを押さえた。

「思ったんだけど……」キッチンの一番手前にいたママが、つぶやくように言った。

「鏡に映って出来た人だと、左右逆になってるんじゃ……? 私元々右利きだし」

 まん中で眼鏡を押し上げていたパパと、カレー鍋をかきまぜていたママとが同時に使っていた左手を降ろす。派手な音を立てて、鍋の蓋が床に落ちた。

「ほら! ほら! やっぱりお前ニセモノじゃないか!!」

 ダイニングのパパがまん中のパパに指を突きつけた。

「お前だって」

 ソファにいたパパの一人が冷静にそう指摘したとたん、ダイニングのパパは突き出していた左腕を庇うように抱いて

「いや、いや! 俺は実はサウスポーなんだった、そう、そうなんだ」

 なあ? 隣に座っていたママとあたしに、何度も何度もそう念押ししてる。

「だよな?」今度はまん中にいたパパにも必死に同意を求めている。

「俺……俺たち元々左利きだったよな? な?」

 その時、バスルームから鋭い悲鳴が聞こえた。廊下のあたしたちは同時に立ち上がる。

 廊下の突き当たり、バスルームの入口から泣き笑いの顔でママが出てきた。

 そして続けてあたし、あたし、またあたし、ようやくママ、それからママ、更にママがぞろぞろと通路に溢れだす。同時に、和室からはパパがまとめて六人飛び出してきた。「なんだこれは!」

 六つ子かよ、と思わずツッコミ入れたくなる。

 ちょうどその時背中を押され、あたしはこけそうになるのをようやくこらえて、ふり向いた。

 二階から降りてこようとするあたし、あたし、あたし、ママ、パパ……。

 すでに数の把握はあきらめていた。狭い家の中はさながら、恐怖の肉詰めミラーハウスだ。

「苦しい!」「ちょっと踏まないで!」「暑い!」

 リモコンに一番近いところに押しやられたママが、どうにかエアコンの設定温度を下げた。いまだかつてない低温な風がごうごうと室内に流れ込む。

「誰か、とめて!」

 ママが何人か同時に叫んでいる。「パパ、助けて! どれが本物なの?」

 突如、キッチンに詰めていたママのひとりが高笑いを響かせた。

「片っ端から、消せばいいんだ、ねえ、そうでしょ?」

 はははは、と嗤う右手には大きな包丁が握られている。ママは隣の、鍋をかき混ぜていたママに襲いかかった。

「殺せ!」

 今度はどこかでパパのだみ声が響いた。「武器を持て、ニセモノをころせ!」

 その声に呼応したのはひとりやふたりではない。あたりはたちまち、怒号や呻き、獣のような吠え声に満たされた。

「ぎゃあぁぁっ」

 ダイニングあたりであたしが絶叫した。照明の下、まっ白い腕がいっぽん、弧を描いてリビングにひしめく群衆の中に飛んでいく。血しぶきがすぐに他から流れる血に混じった。

 がさり、足もとに当たる段ボールで、ようやく玄関先まで押しやられていたのに気づく。

「アタシたち!」あたしは声を限りに叫ぶ。あたりに散らばっていたあたしたちはみんな、こちらを見た。

「アタシたち……みんな、逃げるよ! 来て!」

 ドアを勢いよく開け放ち、あたしは後も見ずに裸足のまま外に駆け出した。

 来る、来る、あたしがどんどんついてくる、背中に、走る自分たちを感じる。

 他の家いえはひっそりと闇に沈んでいる。ただひたすら、あたしたちは走った。

 町はずれの廃車置き場、人の気配が途絶えたあたりで、ようやくあたしは歩をゆるめ、後ろを振り返った。

 ぜいぜいと息を切らせるあたしが総勢……30名。腕を切られたあたしもいた、よかった。しかし、

「……ごめん」

 そのあたしが、すっかり血の気のひいた顔をあたしに向けてから、後ろにあごをしゃくった。「腕、鏡に映っちゃったらしくて」

 切られた腕がなぜか増えたらしく、10本ほどがひたすらあたしたちの後をついて『走って』ついてきている。

「いいって」

 あたしは、ようやく追いついた腕を一本拾い上げ、胸にしっかと抱いた。

 続けて周りのあたしたちも、思い思いにすり寄ってくる腕たちを抱え上げた。

 それからあたしたちは、何組かにうまいこと分散して、日本全国に別れていった。


 ……というわけで、浦和の高校から越してきた宮本磨子、美子、芽衣子、萌子、それにペットのウーデンです。

 どうぞよろしくお願いします。