小説

『円らな瞳』赤森たすく(『浦島太郎』)

 先ほどから、そう、正確にいえば会社を出た直後から、誰かが私を付けている。ラッシュアワーの雑踏のノイズに紛れていても、その規則的な追尾の気配は私の背中に確実に拾われている。横断歩道を大股で渡ったときも、自販機の前で立ち飲みしたときも、どこからかわからないが強い視線を感じていた。地下鉄への階段を降りた。歩くスピードを上げて一方通行の人々の流れの端を進んだ。マスクをした大勢の人間がかなりのスピードで移動するさまは、改めて見るとかなり異様な光景だった。通路の脇に貼られている大きな缶コーヒーの宣伝広告の前で立ち止まる。そしてそれを眺めているふりをした。後ろを歩く誰かのリズムが一瞬乱れたような気がした。誰だ、追ってくるのは!心当たりがまったくないのでよけいに不安になる。今来た通路を逆進して後ろの流れを見てみた。流れから逆進するものがあればその者がわかるはずだ。しかし気配は消えたまま、それらしき者は見当たらない。この人混みの中で、一人の特異な動きを見極めることなんてやはり無理な話だ。いや、そもそも誰かが付けていると感じたのは最近仕事で神経質になっている自分の錯覚だったのだろうか。

 その日はバスで帰ることにした。念入りに後ろをチェックしながら出発する直前のバスに飛び乗った。座席が全部うまっていたので、出口近くのつり革にぶら下がる。バスは街中を数度停車して乗客を拾うと、ビル街を抜け国道を走った。一昨年からのコロナ禍で、乗客全員がマスクをしてスマホを見ている。どこに行っても心の晴れない同じ風景だ。車内は停車案内の電子音声とエンジン音以外ほぼ無音で移動している・・・人から尾行される理由を考えてみた。都会に就職して四年になるが、他人と大きなトラブルを起こしたことはない・・・はずだ。借金はないし彼女もいない。極めて臆病なので、他人とのもめ事は極力避けてきた。仕事は医療機器の営業をしているが、まだライバルを蹴落として受注を取るような実力はない。出張で某独裁国家に一度だけ行ったことはあるが、ホテルから一歩も出ていないし、ローカルの人との接触もなかった。もしかして、どこかの誰かから好意を持たれて身元調査でもされているのだとしたら?しかし現実はそんな甘い憶測を完全否定する。美男でもないし長身で高学歴でもない。性格は保守的で現状維持をモットーとする超保守派。自分でもそんな性格は嫌いなのだ。では誰が何のために尾行したのか?それともやはり勘違いなのだろうか。

 交通渋滞にも遭わず夜七時前に帰宅した。作り置きのクリームシチューを冷蔵庫から取り出して電子レンジに入れた。今日もパンとシチューで済ませるつもりだ。いつもの流れでテレビをつけると、赤い炎を吹く電車の映像が飛び出してきた。クリーム色の車体に青のダブルストライプ。いつも乗っている私鉄の車両だ。誰かが放火したらしいとニュースは告げる。ヘリコプターからの現場映像に切り替わると、黒煙が立ち昇る駅周辺の街並みが現れた。そこは通勤でいつも快速列車が通り過ぎる駅近辺の風景だった。・・・?事件があった時間帯からすると、燃えている電車は自分が乗る予定の車両だったではないのか?それも燃えているのは前から二両目、まさしくいつもの定位置ではないか。ご飯も食べないままニュースに釘付けになっていた。しばらくして現場から逃走した放火犯が捕まったと速報が入る。数人の死者が出たらしい。その夜、ニュースはこの訳のわからない犯罪と犠牲者の話でいっぱいになった。

 翌朝、事件の全容が大分わかってきた。犯人は三十二歳の男で犯行後すぐに電車から飛び降りると線路から道路に移り、走り出したところを巡邏中の警察官に呼び止められ、その場で逮捕された。死者六名、重軽傷者十七名の大惨事になった。翌日の朝のニュースでは、犯人は十数年間に及ぶ引きこもり生活をしており、精神が病んでいたのでは、と解説していたが、危うく命を失いかけた私はそれどころではなかった。あのとき、もし引返していなかったとしたら、もしあのときバスに乗る判断をしていなかったなら、などと、危うく大惨事に巻き込まれるのを免れた“もし”を、冷や汗を掻く思いで反芻した。

 それからしばらくは平穏な日々が続いた。もう後ろを振り返ることもなく、会社と自宅との通勤もほぼこれまで通りになった。ただしあの光景を見た後では、快速電車に乗るのが怖くなってしまった。事件から一か月が経とうとしていたころ、スマホに見知らぬメールが入った。普段だったら既知の名前以外開かないのに、何故だかわからないが昔の知り合いのような気がして開いた。驚くほど率直で簡易な文面はこう告げる。「こんにちは。先日あなたを付けた者です。あなたもすでにお気づきのことだと思いますが、あの日事件に巻き込まれなかったのは偶然だったと思いますか?私の追跡が、結局あなたに普段と違う行動をとらせたのではないでしょうか。あなたに是非お伝えしたいことがあります。ご足労ですが下記のレストランに今度の日曜日、1pmにお越しください。あなたの名前で予約を取ってあります。ではそういうことで。尚返信は致しかねます」そう、あれは錯覚ではなかったのだ。奴はやっぱりいたのだ。そして私の名前も知っている。一体奴は何者なのだ。少し怖いが、勇気を振り絞ってその誘いに乗ることにした。

 指定されたレストランは郊外の私鉄沿線にあった。こんなことでもない限り、こんなところまで出て来ることはまずなかっただろう。商店街の外れにある小振りのフレンチだ。歩道沿いに大きな窓が三つ並んでいて窓下の外棚には名も知らないピンク系の花が植えられている。扉を押して中に入ると若い女性が大きな笑顔で迎えてくれた。マスクで口元は見えないが、円らで潤んだその瞳の表現でわかる。馬鹿げた想像かもしれないが、この指定されたレストランには何かの仕掛けがあるような気がしていた。テーブルが大窓のそばに五つ、カウンター席が十席ほどある。客のほとんどはカウンター席にいて、食後にコーヒーでも飲みながら語っているようだった。「庄司さまでございますか?」と若い女性が訊いてくる。「はい、そうですが」「お待ちしておりました。お席をお取りしておりますので、ご案内いたします」と彼女はそういって一番奥の窓際のテーブルに案内してくれた。着席するなり「予約を入れた人の名前は?」と訊いたら「お客様ご自身ではないのですか?お電話で庄司様とお名乗りになられましたが」「えっ、はあ、そうですか」といって店内を見回す。別段何の変哲もない、家族経営らしきレストランだ。渡されたコースメニューを見ながらまた人の配置を眺めていた。カウンター席にウエイトレスがもう一人、こちらは年増の人だ。その後ろに厨房が見えるが何人いるのかはわからない。表には一人、先ほどの若い女性だ。「フルコースメニューでお昼を、ということでしたので今日のお勧めをご案内いたします」と、きょろきょろと落ち着かないまま辺りを見回している私の後ろから声がした。

「いや、連れが来ると思いますので、もう少し待ちますよ」

「ご予約はおひとり様だけということでしたが。他にどなたかいらっしゃるのですか?」

「えっ?そんな、おかしいな」

「はい、確かにおひとり様ということでしたよ。お一人分にしては十分すぎる前金をすでにいただいております」

「来店して払ったの?」

「いえ、電子決済での振り込みでした」

 せっかくここまで来たのに奴は姿を見せないのか?いや、待てよ、もしかしてカウンター席に座る客の中にいるのかもしれない。全部で六人いる。女の客が二人。奴の性別はわからないのでもしかしたら女性なのかもしれない。メニューはそっちのけでまた店の中を見回した。ウエイトレスは丁寧にこういった。

「お客様、申し訳ございませんが、コースメニューのラストオーダーは一時半となっておりますので・・・」

「わかりました、それではこのラムの赤ワイン仕立てをセットで、デザートは生クリームとアップルタルトでお願いします」

「かしこまりました。食前酒はいかがですか?」

「いえ、けっこうです」

 どういうことなんだ。ご馳走までして何が欲しいのか。そして呼びつけておいて姿を現さないとは。奴の魂胆は一体なんなのか。こうなったら流れに任せてそれを確かめるしかない。

 食事がデザートに進んでも奴は姿を現さなかった。カウンター席の客はすでに全員が去っている。最後にコーヒーを飲みながら外で行き交う人を眺めていると、小さな男の子が窓際の花壇の間から変顔をして私をからかう。しょうがないからこちらも変顔をして対応してやった。すぐに母親が来てお辞儀をすると、にこやかに子供の手を取り立ち去った。のどかなひと時に心が和む。自分がここに来ている理由さえ忘れてしまいそうだ。とその時、外の空気が一変した。マスク姿の長身痩躯の若い男が大股でこちらに近づいて来たのだ。黒ずくめの男がかなりのスピードで私の目の前を通り抜けようとしている。第六感が波打つ。奴だ!そうか奴は外から私を見ていたのだ。男は私のいる窓際の前を通り抜ける一瞬、こちらを見た。それは円らな遠い目つきだった。奴に違いない!私は席を立って店を出た。すぐに捕まるはずだと思って通りに出たが彼の姿は見えない。一つ先の角まで行ってみたが影も形もなかった。

 これが二年前の春に起こったことだ。あれ以降奴から連絡が来ることはないし、追跡されることもない。あれは不思議な出来事だったと、これから私の記憶から徐々に消えていくことになるのだろうか。ただこの期間に起こったことによって、私の人生は大きく変わった。電車火災から免れただけではなく、結局、例のフレンチレストランのウエイトレスと結婚することになったからだ。私の財布にはいつも彼女の写真がある。その写真を見るたびに、奴が私を一瞥した、あの丸くて遠い目つきを思い出してしまうのだ。その酷似は単なる偶然だけでは片づけられないような気がする。今、彼女の胎内には次の世代が宿っている。もしかして、彼女のあの特徴的な眼差しを持った遠い子孫が、過去を変えるというタイムパラドックスを解決し、時空を超えてこの世に登場したのだろうか?私の命を救い、そして彼女と私を結びつけるために・・・そんな風にでも考えないと、あの男の出現によって運命を変えられたことの説明ができないではないか。この世はわけのわからないことが多い。