当然のように、母の姿はそこになかった。というか、私の家はアパートごとなくなっていた。新しく出来たはずの建物がどれもすでに失われ、元々あった古い建物だけが修繕されて方々に残されている。
「言い忘れてたけど。あっちとこっちは時間の流れが違うんだよ」
ヘラヘラとカメが言うので、その頭を殴ってやった。
「それで？ 私はどうすればいい？」
カメは、私が大事に握りしめている黒い筒を指さした。
「最初から、この世界に居場所がない人たちがいる。そういう人に、せめて束の間の夢見心地を与えて、その後に安息へと導くのが竜宮城の務めなんだ」
私は、その黒い筒の蓋に手をかけた。
「ごめんね。次は、奏ちゃんの居場所がある世界に生まれるといいね」
あの古書店は変わらずそこにあった。
置かれている本には若干の入れ替えがあり、確かに客もいるのだなと納得しながら、今日もレジで気怠そうに本を読む店主の姿を見つける。
私は、こちらでも乙姫と呼んでいいのかどうか迷いながら、化粧っけのないその女の前に黒い筒を差し出す。
店主は顔を上げて私をみとめると、少し意外そうに目を丸くした。
「勿体なくなんかないです。竜宮城には三日で飽きた。私には、今のあなたの方がうんと格好良くて素敵です。それと、好きです店主さん」
「いや。バイトなんだが。ふーん。使わないんだ、それ」
竜宮城にいた時とは口調も姿勢もうって変わって、店主もといバイトさんはボリボリと頭をかいた。
「それは玉手箱って言ってね。これを開くと、あなたの体と心が、今居るこの世界の波長と合わさるの。最初から、ズレていたんでしょう？」
「ええ。ズレていました。でも、結構です」
私は言い切る。
「私は、私の時間と世界をめいっぱい使って、ゆっくり大人になって、それから、バイトさんとお付き合い出来るようにならなきゃ」
「私は奏ちゃんと一緒には年を食えない。私はなにひとつ変わらないまま、あなただけが年老いて死んでいくのよ。それでも、耐えられる？」
「ええ。構いません」
私は得意げになって彼女に微笑む。
「三日よりはマシです」
