「姿を見られてしまっては、もうだめなんです。だめなんです、ごめんなさい、ああ……」
それでも手を離さずにいると、女は涙で頬を濡らしながら振り向いて――微笑んだ。女のいつもの笑い方だった。女はひっそりと、しかしほんとうにしあわせそうに笑うのだ。
「ほんとうにありがとう。たのしかった。しあわせだった。あなた、きっときづいていたでしょう。なのにこんな綺麗な着物まで、わたしにやってしまって」
その言葉に、源はたしかにどこかで気づいていたように思えた。とっくに知っていたように思われた。夏でもつめたい手をしていた。女はついぞ、源の釣ってきた鮒を口にしたことはなかった。
「ほんとうに、優しい方」
強く掴んでいたはずの手首が、するり、と逃げた。ちょうど、釣った魚が手の中から滑って落ちるように。女は湖に沈んだ。
源は水面に叫ぶように女を呼ぶが返事はない。ふと、着物がふわりと浮いてきた。揺れながら、錦が鱗のようにきらきらした。それにふれた時、すぐ傍で何かが翻った。跳ね上がって戻った。一匹の鮒だった。
源は琵琶湖に飛び込んだ。女を追う。潜る。潜る。まだ夕闇は迫りきっていないのに、水のなかは暗く冷たかった。潜る。潜る。しまいには何も見えなくなったが、目を見開いて暗い水をかき分け進む。追いかける。追いかける。重い水を蹴る。息が苦しい。泳ぐ。潜る。
どのくらいそうしていたか分からない。ひとの息はどのくらい保つものだったろう、と思ったところで、ふいに息苦しさが消えた。手足は、ただ水をかき分けるものとなって動いていた。目は瞬きを忘れ、瞼を失った。くちびるは尖り、体が力強く水をかき分ける。暗闇のなかで閉じることのない両の目には、はっきりと、わかる。
白いうなじ。その下にある、割った饅頭の、小さいもう半分に似ている傷跡。